島原高剣道部を全国区に 渡邉校長が定年退職 「島高を頼みます」

退任式を終えて、生徒たちに拍手で送られる渡邉校長(中央)=島原市、島原高体育館

 自らも巣立ち、32年間勤めた島原高。「意気に感じてやる」「できることはすべてやる」-。剣道部を全国屈指の強豪校へ育てた渡邉孝経校長が24日、教員生活に幕を下ろした。この日、学校で行われた退任式。後輩でもある生徒たちへ「今を一生懸命に生きてほしい。島高を頼みます」と別れの言葉を送った。
 新任で5年間勤務した壱岐高から、1989年に母校へ赴任。OBとして剣道部の監督に就いたが、県高総体の初陣は「忘れもしない」団体予選リーグ2戦2敗だった。その後は指導法に悩みながらも、他校や道場から懸命に学んで8強、4強へステップアップ。5年目の93年、男子を個人で初めてインターハイに導いた。
 このころ、一つの原動力となったのは、91年の雲仙・普賢岳大火砕流惨事だった。43人が犠牲になった6月3日以降は臨時休校を経て、島原半島内で分散授業や制限の中での部活動…。苦しかったが「頑張らないかん」という思いがより強くなった。逆境を力に変えた。災害に負けず、コツコツとやった経験は今に生きている。
 最初はインターハイに出るだけで喜んでいたが、96年の玉竜旗で男子が3位になると、チームの「日本一」を目指す意思が明確になった。「生徒がそういう思いを持ってやる以上は応えたい」。勉強もおろそかにしないために、短い時間で結果を残せる効率的な練習を模索した。
 2003年の地元インターハイ、14年の地元国体へ向けた県全体の強化も大きかった。男子が04年に魁星旗で初めて全国優勝すると、女子も09、13年にインターハイ制覇。国体は少年勢の主体として男女ともに3度の頂点に立つなど、生徒たちとともに多くの感動と喜びを味わってきた。
 そんな数々の栄冠を手にしてきた指導者人生。すべては「周りの人たちのおかげ」だと心から思っている。寮生の世話は、妻の加緒里さんが仕事や子育てと両立して10年間やってくれた。部員の保護者や地域の人たちがその役目を引き継いでくれた。県内外の優秀な指導者たちは、いつも刺激を与えてくれた。
 卒業生たちは現在、指導者や選手、立派な社会人として各分野で活躍している。14日の全日本選手権で筑波大4年の松崎賢士郎が日本一に輝いたのをはじめ、多数の学生王者や世界選手権の日本代表も生まれた。高校時代は控えでも、国立大の剣道部でリーダーを務める選手もいる。
 基礎基本の徹底に人間形成-。「指導で大事にしてきた成果が表れているようでうれしい」。島原高剣道部は、校是でもある「文武両道」のチームになったと胸を張れる。
 4月から県の競技力向上や強化のアドバイザーに就く。「若い指導者たちに、自分を踏み台にしてほしい」。名将はこれからも、周りの期待や選手たちの熱意に応えて、次世代のチームづくりを支えていく。

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