幕末を代表する偉人のひとり、坂本龍馬(さかもと りょうま)。
坂本龍馬が福山・鞆の浦に滞在していたことを知っていますか?
龍馬が鞆の浦を訪れるキッカケとなったのが「いろは丸事件」です。
いろは丸事件について知れる施設が、鞆の浦の常夜灯広場にある「いろは丸展示館」。
地元の有志の努力でいろは丸の調査がおこなわれ、その成果やいろは丸の遺物などがたくさん展示されています。
また展示館の建物は、なんと築300年の大きな蔵。
登録有形文化財に指定されているのです。
坂本龍馬が鞆の浦に来るキッカケとなったいろは丸事件を現代に伝える、いろは丸展示館について紹介します。
館内の写真はSNS投稿禁止です。また、一部に撮影禁止の展示物があります。見学の際は注意してください。
いろは丸展示館とは
いろは丸展示館は、福山市南西部・鞆町にある資料館です。
「鞆の浦」のシンボルともいえる常夜灯(じょうやとう)前の「常夜灯広場」にあります。
江戸時代末期に笠岡市六島沖でおきた、坂本龍馬ら海援隊(かいえんたい)が乗った船「いろは丸」が沈没した「いろは丸事件」について資料を展示しています。
実は、いろは丸沈没地点では潜水調査がおこなわれてきました。
いろは丸展示館では、潜水調査で発見されたいろは丸の遺物や、調査のようす、調査結果などを展示しています。
なお、常夜灯広場にはカフェ「a cafe」や土産物店「鞆一商店」もあります。
いろは丸展示館の入館料
令和3年(2021年)1月時点の情報。 料金は消費税込
いろは丸展示館の入館料は、以下のとおりです。
「いろは丸事件」とは?坂本龍馬と鞆の浦の関わり
そもそも「いろは丸事件」とは、どんな事件なのでしょうか。
坂本龍馬と鞆の浦には、どんな関連があったのでしょう。
いろは丸事件・坂本龍馬と鞆の浦との関わりについて紹介していきます。
江戸幕府最後の年である慶応3年(1867年)の4月23日深夜、「いろは丸」という船と「明光丸(めいこうまる)」という船が、現在の笠岡市笠岡諸島の六島(むしま)付近で衝突しました。
いろは丸は大坂(現 大阪市)を目指して東へ、明光丸は長崎を目指して西へ進んでいたときの事故です。
いろは丸は大洲藩(おおずはん:現在の愛媛県大洲市に拠点を置いた藩)が所有する160トンの蒸気船で、坂本龍馬らの海援隊(かいえんたい)が乗り込んでいました。
いっぽう、明光丸は紀州藩(現在の和歌山市に拠点を置いた藩)が所有していた887トンの大型蒸気船です。
衝突事故でいろは丸は、大きく壊れてしまいます。
そこで衝突地点から一番近い港町・鞆の浦(鞆津)まで、明光丸が引いていくことになりました。
しかし、いろは丸は途中の宇治島沖で沈没したのです。
海援隊と紀州藩は鞆の町に上陸し、龍馬は商家の桝屋清右衛門(ますや せいえもん)宅(現 龍馬の隠れ部屋 桝屋清右衛門宅)に宿泊。
紀州藩は、圓福寺(えんぷくじ)に泊まりました。
そして双方の宿泊所のほぼ中間にある商家・魚屋萬藏(うおや まんぞう)宅(現 御舟宿いろは)と福禅寺 対潮楼(ふくぜんじ たいちょうろう)で賠償の談判(交渉)をおこなうことになります。
談判は4日間にわたっておこなわれましたが、決着はしませんでした。
決着せぬまま、紀州藩は長崎へ向かって出航。
龍馬らは、鞆の浦に停泊していた長州藩(現在の山口県に拠点を置いた藩)の船に乗り、あとを追っていきます。
長崎でも談判がおこなわれて決着し、紀州藩から海援隊側に賠償金が支払われることになりました。
ちなみに「いろは丸事件」は日本最初の蒸気船同士の海難事故で、同時に日本最初の万国公法による海難審判事件です。
なお、鞆の浦で龍馬ら海援隊が泊まった桝屋清右衛門宅、紀州藩が泊まった圓福寺、談判がおこなわれた魚屋萬藏宅・福禅寺 対潮楼は現存しています。
沈没した「いろは丸」の調査
いろは丸の沈没地点は、昭和63年(1988年)から平成16年(2004年)までのあいだで、計5回にわたって学術的な潜水調査がおこなわれました。
調査は、地元・鞆の浦の有志グループが中心となったのです。
昭和63年の第1次調査では鋼材などが引き上げられ、19世紀のヨーロッパ製の蒸気船と判明。
平成元年(1989年)の第3次調査によって、調査地点で発見された遺物はいろは丸であるとほぼ断定されました。
平成2年(1990年)には、文化庁によって「水中遺跡」に指定されています。
平成16年の第5次調査は、日本テレビ『24時間テレビ 愛は地球を救う』内で放映され、大きな注目を浴びました。
なお令和3年1月現在、談判で龍馬がいろは丸に載せていたと主張した鉄砲や砂糖の痕跡は発見されていません。
いろは丸展示館では、調査のようすや調査結果、調査で発見された遺物などが展示・紹介されています。
いろは丸展示館の館内の紹介
いよいよ、いろは丸の館内を紹介していきます。
館内の写真はSNS投稿禁止です。また、一部に撮影禁止の展示物があります。見学の際は注意してください。
1階はいろは丸と潜水調査に関する展示
入口をくぐるとすぐ、向かって右手に受付窓口があります。
龍馬グッズの販売もしていました。
クイズ形式なので、小中学生などでも楽しく学べます。
圧巻なのは、潜水調査時のようすをリアルに再現したスペース。
いろは丸の甲板には、燃料の石炭が大量に散乱していたそう。
遺物はたくさんあり、おもにいろは丸の部品や積荷などです。
- 木製滑車
- フック
- ランプ
- 蛇口
- 機械類
- 木箱
- すずり
- 古伊万里焼の茶碗
- ガラス容器
- 燃料用石炭
遺物の中には、龍馬が主張していた400丁の鉄砲や砂糖の遺物や痕跡はありませんでした。
龍馬は当時高級品だった鉄砲や砂糖を載せていたことを理由に、多額の賠償金を請求していたのです。
そのため鉄砲や砂糖などの主張は、賠償金を増額するための龍馬のハッタリだったという説があります。
いっぽう、まだ調査は完全におこなわれたわけではありません。
今後さらに調査がおこなわれた場合、鉄砲や砂糖の痕跡が発見される可能性があります。
坂本龍馬は商売人でもあったので、本当に鉄砲や砂糖が積まれていたかもしれません。
またいろは丸と明光丸の衝突は、本当に明光丸側に非があったのかどうかという論争もあります。
ほかに展示は、沈没前のいろは丸の推定図などがありました。
また映像での紹介もあるので、いろは丸事件について気軽に知れます。
2階は龍馬が鞆の浦に隠れて滞在した部屋を再現
龍馬が鞆の浦に滞在したとき、泊まった桝屋清右衛門宅では2階の隠れ部屋に身をひそめていました。
いろは丸展示館の2階では、龍馬が滞在した隠れ部屋を再現しています。
部屋の中には、なんと坂本龍馬の人形が!
部屋の中には入れませんが、部屋の前で龍馬人形と写真を撮れます。
取材時(令和3年1月)は、いろは丸事件150年観光キャンペーンとして坂本龍馬にコスプレして写真を撮れる企画をしていました。
なお2階の天井や梁は、蔵のものをそのまま使用。
ちなみに、実際に龍馬が宿泊した桝屋清右衛門宅では、龍馬が隠れていた部屋が残っています。
見学もできますので、いろは丸展示館とあわせて寄ってみてはいかがでしょうか。
建物にも注目!築およそ300年の登録有形文化財
いろは丸展示館は、建物も重要です。
実はいろは丸展示館の建物は、大きな蔵。
築300年ほどの古い建物なのです。
蔵は江戸時代から明治時代初期にかけて、保命酒(ほうめいしゅ)の醸造・販売をしていた豪商・中村家が所有していました。
保命酒は現在も鞆の浦の名物となっている薬用酒。
船で運ばれてきた保命酒づくりの材料を保管する蔵として利用されていました。
だから、海沿いにあるのです。
そして鞆で有数の大きさの蔵だったので、通称「大蔵(おおくら)」と呼ばれていました。
明治以降は太田家が所有し、倉庫などいろいろなことに使われています。
いろは丸展示館として利用されたのは、平成元年からです。
なお、いろは丸展示館の蔵は平成12年(2000年)に、文化庁によって登録有形文化財に指定されました。
いろは丸といろは丸事件についてや、沈没地点の調査などについて知れるいろは丸展示館。
館長で「鞆を愛する会」の赤松宏記(あかまつ ひろき)さんへインタビューをしました。
いろは丸展示館の館長・赤松 宏記さんへインタビュー
いろは丸といろは丸事件についてや、沈没地点の調査などについて知れるいろは丸展示館。
館長で「鞆を愛する会」の赤松宏記(あかまつ ひろき)さんへインタビューをし、沈没したいろは丸の潜水調査のことや、開館の経緯などの話を聞きました。
いろは丸の潜水調査が始まったキッカケ
──いろは丸の海底調査は、どのような経緯で始まったのか。
赤松(敬称略)──
もともと私たちは「鞆を愛する会」という町おこしの有志グループなんです。
地元の漁師さんのあいだで「鞆の沖合に漁具が海底で引っかかって敬遠している場所がある」という話がずっと前からあったんです。
その場所が龍馬のいろは丸沈没地点ではないかという噂でした。
そこで私たちは町おこしの起爆剤になるんじゃないかということで、いろは丸の調査をしてみたんですよ。
まずは漁師さんに、その場所に連れて行ってもらうところから始まりました。
昭和62年(1987年)のことです。
当時の漁船はレーダーなんて付いていなかったので、5〜6回は行ったでしょうか。
いろいろなかたが協力してくださったので、助かりました。
大阪の建築会社、神戸の船のレーダー製造会社、ソナー(音波で海中を調べるもの)を貸してくれた会社などが協力してくれたんです。
昭和63年(1988年)4月に、ソナー調査で海中に船影を確認しました。
それで、本格的に調査を始めようということになったんです。
──本格的な潜水調査は、いつから?
赤松──
昭和63年5月に第1次の本格的な潜水学術調査がおこなわれました。
鉄材などが引き上げられて、これを当時の日本鋼管(現 JFEスチール株式会社 西日本製鉄所)の鉄工研究所で分析してもらったんです。
分析の結果、19世紀のヨーロッパ製のものとわかり、いろは丸である可能性が高まりました。
ドキドキしましたね。
それで10月に第2次調査、翌1989年(平成元年)2月に第3次調査と続けておこなったんです。
第2次・3次調査でも、たくさんの遺物が引き上げられました。
海底の調査や引き上げの遺物などを専門家に調査してもらい、いろは丸であるとほぼ断定されたんですよ。
「やはり!」と思わず声を出してしまいましたね(笑)
私たちの活動が実を結んで、うれしかったです。
その後、いろは丸展示館の開館後の平成元年9月と平成16年(2004年)にも潜水調査をおこなっています。
──調査で大変だったことは?
赤松──
実は、調査にかかる費用が膨大なんですよ。
1日の調査だけで約150万円もかかりました。
ダイバーさんの委託料金とかが大きかったですね。
福山駅前で募金活動したり、鞆の浦のTシャツなどのグッズを販売したりして資金を集めました。
資金集めが一番大変でしたね。
地元有志の協力でいろは丸展示館が存続へ
──いろは丸展示館は、どういった経緯で開館した?
赤松──
ちょうど平成元年(1989年)に、広島県が「海と島の博覧会」を開催することになったんです。
それで福山市が目玉企画として、我々のいろは丸調査に目を付けていただきまして。
海と島の博覧会の会場のひとつとして、現在のいろは丸展示館の場所に、いろは丸調査の遺物や調査のようすなどを展示することになりました。
開館は、博覧会の開始と同じ平成元年7月。
しかし10月の博覧会終了後、展示施設は片付けることになっていたんです。
ただ私たちは「それはもったいない!」ということで、市と大家さんに話をし、博覧会終了後の11月からは「いろは丸展示館」として私たち鞆を愛する会が運営していくことになりました。
現在のいろは丸展示館は、博覧会当時と一部を除いてほぼそのままですよ。
──現在いろは丸展示館がある建物は、元は蔵だと聞いたが。
赤松──
そうですね。鞆の名産である保命酒(ほうめいしゅ)の原材料、モチ米や薬草などを保管している蔵でした。
今の常夜灯横のところに船を着け、そこから蔵に入れていたそうです。
もともとこの蔵は鞆で一番大きな蔵だったので「大蔵」と呼ばれていました。
所有していたのは、保命酒の醸造・販売をしていた中村家。
築年数は約300年もあって、建物自体もいろは丸展示館の魅力ですよ。
広島県内でも比較的早い時期に、登録有形文化財に指定されていました。
中村家は明治時代に保命酒の商売はやめ、それからは太田家が所有しています。
その後はいろいろなかたに貸し出しされ、船大工の倉庫や、海水浴場の道具置き場などになっていました。
鞆の海とともにいろは丸展示館も楽しんでほしい
──今後の展望があれば、教えてほしい。
赤松──
令和2年から令和3年は、新型コロナウイルス感染症の流行でお客さんは約90%減。
厳しい時期ですが、開館日を土日祝日に限定するなどして乗り切っています。
お客様にはご迷惑をおかけしますが、コロナ禍を乗り切って、ぜひまた多くのかたにお越しいただけたらうれしいですね。
当館は海がすぐそばにあります。
ここまで海が近いのは珍しいという声もよく聞きますね。
ぜひ一度いろは丸展示館にお越しいただき、鞆の海とともに楽しんでもらえればと思います。
鞆の浦と坂本龍馬を結びつけた「いろは丸事件」
坂本龍馬と鞆の浦を結びつけた「いろは丸事件」について紹介するいろは丸展示館。
沈没したいろは丸の調査は、地元有志のかたの努力で実現していたとは知らず、とても驚きました。
いろは丸展示館は、観光で鞆を訪れたらぜひ寄ってほしい施設です。
日本の歴史のキーパーソンのひとりである坂本龍馬が鞆の街を歩いていたと考えると、鞆散策が楽しくなるのではないでしょうか。