<書評>『沖縄戦 久米島の戦争』 次世代継承へ強い思い

 2011年、筆者は本書の編者である徳田球美子氏と島袋由美子氏の案内で久米島の戦跡地を訪ねた。久米島の旧具志川村で上江洲トシ先生の子として生まれた姉妹は1945年当時、8歳と6歳の幼児だった。
 久米島と言えば、鹿山事件を思い浮かべる。8月15日の終戦の日を過ぎても、軍による住民虐殺が続いた。宇江城の海軍通信隊には、40人ほどの軍隊が駐屯しており、その長が鹿山曹長であった。米軍による、本格的な久米島上陸作戦は6月になってからだった。何を間違ったのか、米軍は大軍を送り込み、上陸前の大規模な艦砲射撃を用意していた。鹿山隊による住民虐殺はその時期に始まった。この鹿山による特異な事件については多くの人がご存じだろうが、どんな人が、なぜ虐殺されたのかという詳細についてはあまり知られていないだろう。家族や人となりまで、編者のお二人は聞き取っている。
 当時の久米島の人口は約1万4千人だったろう。沖縄戦における住民犠牲者の戦没率は約25%である。それと比べて、久米島の住民犠牲は少ない。それは、鹿山事件での凄惨(せいさん)な虐殺を受けてしまった方々の、島を守ろうとした行動があったからだろう。久米島で生かされたお二人の、島を見つめるやさしい目で、そのことを解き明かしてくれる。
 久米島にも離島残置諜報(ちょうほう)隊として、二人の陸軍中野学校出身兵が配置された。当時、お二人の祖父が教頭だった関係で、上原敏雄(本名・竹川実)が一晩、家に泊まり、隣の山里殿内に住むようになった。村助役の娘のSさんと同居し、一人の男児が生まれている。こうした陸軍中野学校の出自についても詳細に調べ、具体的に記述されている。
 巻末には、久米島内にある9カ所の戦跡が紹介されており、久米島住民戦没者1100人の名前を収録している。体験者として、久米島の沖縄戦で何があったのかを、次世代へ残したいという強い思いを感ずることができる。
 (村上有慶・戦争遺跡保存全国ネットワーク元共同代表)
 久米島の戦争を記録する会 久米島出身の姉妹、徳田球美子氏と島袋(上江洲)由美子氏らで構成する。本書は、2010年になんよう文庫から出版された内容に追加の証言などを加筆修正した。
 

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