「共生」より「管理」の歴史、外国人に選ばれる国へ あなたの隣で~難民鎖国ニッポン 第5回

 入管難民法改正の政府案は、国連機関からも見直しを求められるほど、問題の多い内容です。一方、野党案は、国際基準にのっとったものと評価されています。最終回の第5回では、日本の外国人受け入れの歴史を振り返り、あるべき法制度を考えてみます。(共同通信編集委員=原真)

 サンフランシスコ講和条約に署名する吉田茂首相=1951年9月、米サンフランシスコ

 ▽日本国籍喪失を通知

  外国人の受け入れに関する戦後の主な出来事を年表にしてみた。

1945年 終戦

1947年 外国人登録令(後の外国人登録法)を制定

1951年 出入国管理令を制定

1952年 朝鮮人や台湾人の日本国籍喪失を通知

      サンフランシスコ講和条約発行

1969年 出入国管理法案を国会提出、廃案に(~73年)

1978年 最高裁マクリーン判決

1981年 入管難民法成立

      日本が難民条約加入

このころ  指紋押なつ拒否運動が拡大

1989年 日系人受け入れの法改正

1993年 技能実習制度創設

2009年 定住外国人を住民登録する法改正

2018年 「特定技能」制度化

 日本が1895年に台湾、1910年に朝鮮を植民地にしたことから、太平洋戦争が終わった45年当時、日本国内には多数の朝鮮人(コリアン)や台湾人が暮らしていた。みな日本国民だったが、政府は47年に外国人登録令(後の外国人登録法)を制定し、コリアンらを「外国人とみなす」ことにした。51年には出入国管理令を公布し、外国人を管理する法制度の骨格が出来上がる。

連合国軍総司令部(GHQ)として使用された第一生命館=1952年

 当時の在日外国人約60万人の9割はコリアン。一連の外国人政策の裏には、冷戦下で共産主義に傾く在日コリアンに対する連合国軍総司令部(GHQ)の警戒感があった。

 52年にサンフランシスコ講和条約が発行し、日本が独立を回復するのに伴い、政府はコリアンらの日本国籍喪失を一方的に通達した。これにより、戦時中は日本国民として徴用され、日本軍人にもなったコリアンらが一転、外国人とされた。その結果、在日コリアンらは国民健康保険や国民年金、軍人恩給などの社会保障から排除されていく。

 ▽「煮て食おうと焼いて食おうと自由」

 60年代から70年代にかけて、外国人への管理を強める出入国管理法案が国会に4回提出されたものの、在日コリアンや日本人の若者らの反対で廃案になった。しかし、外国人の政治活動を理由に在留を許可しないことの是非が問われた訴訟で、最高裁は78年、「外国人を自国内に受け入れるかどうかは、国家が自由に決定できる」と判断した(マクリーン判決)。法務省幹部が「(外国人は)煮て食おうと焼いて食おうと自由」と公言していたのを追認するかのような判決だった。

 そんな中で、在日コリアンの権利獲得運動が活発化し、大企業への就職や、被爆者手帳の交付、司法修習・弁護士登録などを勝ち取っていく。80年代には、外国人登録法で義務付けられた指紋押なつの拒否運動が全国に広がり、指紋制度廃止に至る(注5)。

  ▽運動と条約に押され法改正

  一方、70年代後半からインドシナ難民が押し寄せたのを機に、日本政府は難民条約に加入し、出入国管理令を改正、難民認定手続きを整備した。現在につながる入管難民法の成立である。入管難民法に詳しい高橋済(わたる)弁護士は「我が国が『難民』という『外国人』を受け入れなければならないとなった点は、歴史的大転換であった」と評する。外国人受け入れで国の広範な裁量を認めたマクリーン判決に、風穴が開いたのだ。

 さらに、国際人権規約、女性差別撤廃条約などに日本が加入したのに伴い、国民健康保険の国籍条項廃止などの是正策が取られ、定住外国人も社会保障に加入できるようになった。在日コリアンらの運動と、難民の漂着や国際世論、条約といった外圧に押され、国内の法制度が変わっていったのである。

  ▽急増した外国人労働者

 バブル景気になると、出稼ぎの外国人がアジアや中東諸国から次々に来日した。不法滞在の外国人労働者は、人手不足の建設現場などで働き、日本の経済・社会を支えた。政府は89年の入管難民法改正で日系人を迎え入れ、93年の法相告示で外国人技能実習制度を創設する。在日外国人は増え続けた。

 当初は不法就労を黙認していた政府も、バブル崩壊後は摘発を強化するとともに、在留特別許可を増やし、2004年から5年間で、約22万人いた不法滞在者を半減させた。不法滞在や不法就労を防ぐための法改正も重ねる。外国人労働者の主力は、不法滞在者から日系人、技能実習生や留学生アルバイトへと移り変わっていく。

 入国審査での指紋採取に反対し、法務省前で抗議行動をする人たち=2007年11月、東京都千代田区

 09年、政府は外国人登録法を廃止し、定住外国人を住民登録に組み入れる入管難民法などの改正を行った。18年の入管難民法改正で「特定技能」を制度化し、いわゆる単純労働者の受け入れにかじを切った。

 ▽脱北者駆け込みの影響

  この間、中国・瀋陽の日本領事館に脱北者(北朝鮮難民)が駆け込んだ02年の事件を機に、日本の「難民鎖国」への非難が強まる。政府は04年に入管難民法を改正し、難民認定の異議申し立て(現在の審査請求)の手続きに有識者(難民審査参与員)を関与させることにした。

 10年には、正規滞在者の場合、難民申請して6カ月経過した後は、就労を許可し始めた。その後、難民申請が急増すると、同じ理由で申請を繰り返す人らには就労を認めず、明らかに難民に該当しない人は在留も許可しない方針に転換した。難民申請の乱用防止策を段階的に強めていったのだ。

 そして、19年に大村入国管理センター(長崎県)でハンスト中のナイジェリア人男性が餓死したのを受けて、法務省は有識者会議を設置した。その提言を受ける形で、今回の入管難民法改正案をまとめたのである。

入管難民法改正の政府案の廃案を求めて、記者会見する難民申請者と支援者ら=2021年4月、東京都千代田区の厚生労働省記者クラブ

 ▽象徴的な冷淡さ

 最後に、1980年代から在日外国人を取材してきた記者として、考えていることを記したい。

 定住外国人(中長期在留者)は2020年末現在、288万7116人に上り、全人口の2・3%に相当する。少子高齢化が進み、建設業から製造業、農業まで人手が足りない日本にとって、外国人の受け入れは不可欠だろう。

 しかし、入管難民法改正の経過をたどると、外国人を労働力として受け入れつつも、「共生」より「管理」に終始してきたと言わざるを得ない。外国人の取り締まりに偏る政府の姿勢が、排外主義的なヘイトスピーチの頻発などにつながっている面もあるのではないか。

 特に、難民への冷淡さは、日本という国の、外国人一般に対する態度を象徴しているように見える。難民は、政府が認定するから難民になるのではない。もともと難民であり、それを認定手続きで確認するだけだ。その意味で、マクリーン判決が肯定した国家の裁量の枠外に存在する。母国に送還すれば、命の危険があるのだから、本来、裁量が働く余地はない。

 ところが、日本では、保護されるべき難民も、めったに認定されない。収容施設に拘禁されることさえ珍しくない。困窮する一部の難民申請者には、外務省が「保護費」を支給しているが、単身者で月9万円程度と、生活保護費の7割前後にとどまる。認定後の支援も不十分で、将来の展望を持てず、他国に移住した難民もいる。

 ▽「来て良かった」となる法制度に

  入管難民法改正の政府案は、そんな現状を放置しつつ、やむなく何回も難民申請する人を強制送還しようとしている。難民が脅威にさらされる国への送還を禁じた難民条約に、違反する疑いが強い。国連機関が見直しを求めた無期限の全件収容なども、従来とほぼ変わらない。要は、「管理」ばかりなのだ。

 難民認定の独立機関創設や、収容への司法審査導入を盛り込んだ野党案の方が、国際的に支持されるだろう。「共生」への基盤となり得る。

 各国の間で人材獲得競争が激化する中、このままでは、日本は外国人に選ばれない国になりかねない。「日本へ来て良かった」。そう思ってもらえるような法制度に、変えていく必要がある。

(注5)外国人登録法による指紋押なつは全廃されたが、2006年の入管難民法改正で「テロ対策」として、外国人の入国時の指紋採取が義務付けられた。在日コリアンをはじめとする特別永住者や16歳未満の外国人は対象外。

(終わり)

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