コロナ対策で出所の夫が妻を殺害、DV多発 男性優位社会のトルコ、女性保護の条約脱退も

 伝統的な家父長制が色濃く残るトルコでは、女性への暴力が長年、深刻な社会問題となっている。殺害事件も多発し、解決の糸口が見いだせない。昨年、新型コロナウイルス感染対策の一環として、受刑者の一時出所や仮釈放が認められると、出所した男が妻とその母を殺害する事件も起きた。女性団体は、コロナ対策の影でドメスティックバイオレンス(DV)やストーカー被害の対策が後手に回っていると警鐘を鳴らす。それにもかかわらず、トルコ政府は3月、女性保護の国際基準を示す欧州評議会の「女性への暴力およびDV防止条約」(通称・イスタンブール条約)からの脱退を発表した。女性団体は女性運動のシンボルカラーの紫を使った旗を掲げ、抗議集会やデモを続けている。今トルコで何が起きているのか、現場から報告する。(共同通信=安尾亜紀)

女性団体の抗議集会(共同)

 ▽母も犠牲に

 昨年7月11日、トルコ西部サカルヤ県の長期滞在型ホテルで、不動産業のギュルスム・カラペクメズさん=当時(41)=と、その母メラハト・オンルトゥルクさん=当時(66)=の遺体が見つかった。計画殺人の罪で起訴されたのはギュルスムさんの夫、イスマイル被告(44)。起訴状によると、被告は至近距離から2人に10発近い銃弾を撃ち、殺害したとされる。

 夫婦は昨年2月に結婚したばかりだった。イスマイル被告は当時服役中だったが、同業者仲間だったギュルスムさんが刑務所に差し入れを届けたことをきっかけに交際がスタートした。結婚式のために短期出所が認められ、国内新婚旅行にも出かけた。幸せそうに見えた2人だったが、妹のウンムハンさん(41)によると、暴力はこの時から始まっていたという。遺族の手元に残されていた結婚式の写真からは花嫁の横に写っていたイスマイル被告が切り取られていた。

ギュルスムさん(中央)の結婚式の写真(共同)

 政府は昨年4月、新型コロナ感染拡大を受け、受刑者の仮釈放や一時出所を認めるため法律を改正し、ただちに施行した。刑務所の過密が問題となっていたからだ。地元メディアによると、約9万人が出所した。ウンムハンさんは「姉は、この法改正で夫が出所するのを怖がっていた」と振り返る。母メラハトさんがそばにいれば、イスマイル被告も暴力を振るいにくいだろうと考え、呼び寄せていたときに事件は起きた。「結局、姉も母も殺されてしまった。2人を守れなかったことが、とても悔しい」とウンムハンさんは涙をこらえながら話す。「トルコでは女性の立場が低く、暴力が阻止されることはないのです」

ギュルスムさん(左)と母親のメラハトさん(提供写真・共同)

 ▽急増

 独立系メディア、ビアネットの集計によると、昨年だけで少なくとも8人の男が、この法改正で出所した後、女性殺害事件を起こした。法施行当初は釈放された受刑者情報が被害者側に伝えられないという問題もあったため、加害者が出所したのかどうかが分からず、おびえながら暮らす被害者女性も多かった。支援団体「女性殺害を食い止める会」代表、フィダン・アタセリムさん(33)は「玄関のベルが鳴り、ドアを開けると刑務所にいるはずの夫が立っていた、という事態に女性たちは直面した」と話す。当局が被害者に情報を伝達するシステムの導入を発表したのは、法改正から半年後だった。

 ステイホームの影響で、DV被害が見えにくくなっている現実もある。「女性殺害を食い止める会」の集計によると、女性殺害事件の現場は、半数以上が自宅で、実行犯は夫や恋人が多い。夜間や週末の外出禁止令が頻繁に出され、被害女性たちは加害者との在宅を余儀なくされている。アタセリムさんは「私たちのホットラインに助けを求める女性は、コロナが始まってから急増した。特に本人ではない第三者による通報が増えている。自分では連絡できない人が多い」と説明する。感染拡大の影響で、医師や警察に相談に行くことをためらう女性も相次いでいるという。アタセリムさんは「市民がウイルスから守られるように、女性の生きる権利も守られるべきだ」と話す。

フィダン・アタセリムさん(共同)

 ▽羅針盤

 トルコの女性団体や関係者らが、女性に対する暴力の問題を解決に導く羅針盤としていたのが、欧州評議会の「女性に対する暴力およびDV防止条約」だった。トルコは2011年にいち早く署名した国のひとつだ。イスタンブールで署名式が行われ、イスタンブール条約とも呼ばれる。条約は、女性に対する暴力の防止、被害者の保護、加害者の訴追実現を柱としている。署名当時、エルドアン大統領は首相だった。今も続く公正発展党(AKP)政権下で条約に基づき、法制度が整備された。

 しかし制度が整備されても、女性に対する暴力は続いた。専門家や弁護士、被害者の女性は、制度が効果的に運用されていないためだ、と訴えた。新型コロナの感染拡大が始まった昨年4月、大手労組や医師会など四つの団体に所属する女性団体が合同で「条約を効果的に運用し、女性への暴力増加に対し緊急の行動計画を策定すべきだ」と政府に要望していた。

 ▽後退

 ところが、エルドアン大統領が決めたのは、条約からの脱退だった。今年3月20日、大統領令による脱退決定を発表した。大統領府は「女性保護を目的とした条約が同性愛を標準化しようと試みる人々に乗っ取られた」「同性愛はトルコの家族観と相いれない」と理由を説明した。条約は女性保護を目指す一方、保護措置を「ジェンダー、性的指向」で差別しないと定めている。エルドアン大統領の支持基盤であるイスラム保守層は「ジェンダー概念は私たちの文化に合わず、条約はトルコの家族制度を崩壊させる」と反発していた。脱退の狙いは、保守層の支持固めと指摘されている。メトロポール社の世論調査によると、昨年3月のエルドアン大統領の支持率は55.8%だったが、今年2月は46%まで低下していた。

エルドアン大統領(アナトリア通信・共同)

 条約脱退の表明に対して、欧米から懸念と批判が相次いだ。欧州連合(EU)のボレル外交安全保障上級代表は「新型コロナウイルス流行や多くの紛争で、世界中で女性や少女への暴力が増える中、条約は今まで以上に重要」と指摘し、脱退は「世界に危険なメッセージを送っている」と訴えた。米国のバイデン大統領は「各国は女性への暴力を終わらせるための協力を強めるべきだ」と強調し、脱退は「国際的な取り組みを後退させる」と批判した。

 トルコでは女性団体が全国で大規模な抗議集会を開いた。脱退発表の日にイスタンブールで開かれた抗議デモでは数千人が広場を埋め尽くし、「決定を撤回し、条約を守れ」とシュプレヒコールを上げた。女性団体幹部のハニフェ・シャハンさん(41)は「トルコのDVや女性殺害事件は深刻なレベルで増加している。条約は、女性が殺害や暴力を阻止できると期待できるよりどころの一つだった」と述べた。

 トルコで女性問題を取材するたびに感じることは、男性優位社会の根深さと、それに立ち向かう草の根運動の活発さだ。さまざまな女性団体が活動し、参加する女性一人一人の姿勢には固い決意がある。道は険しいかもしれないが、女性たちの運動に希望が感じられる。

3月8日「国際女性デー」の集会(共同)

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