ベラルーシで新たな市民文化が都会の中庭に生まれる 

(原文掲載日:2020年12月21日)

ミンスク郊外の工業地区、アルタイスカヤ、アンガルスカヤ、ソカル、パルチザンスキー、シャバニー、各地区の白・赤・白の旗を手に団結する人々。シャバニーはニューヨークのハーレムとよく比較され、ミンスクで最も治安の悪い地区と言われている。写真:コンスタンチン・カシャク。使用許諾済み。

ベラルーシでは抵抗と抗議が続いている。国民の大多数は、アレクサンドル・ルカシェンコが連続6期目の当選を主張する8月9日の大統領選の結果を認めていないからだ。毎週日曜、首都ミンスクでは大規模なデモ行進が行われており、1991年の独立回復以来最大規模のデモに発展しているものもある。一方、就業日には郊外に建つ高層住宅の住民が建物の間に集まり、新たな形の抗議行動を広げつつある。昔使われていた国の象徴に立ち返り、それを基にしたその土地独自のビジュアル・アイデンティティを掲げながらデモ行進するというものだ。

国の象徴とともに現政権に立ち向かう 新たな姿の旧国旗が誕生した経緯

何ヵ月もの間、主に中心街で警察の暴行が激しくなっている。そこでは8月に抵抗運動が始まり、日曜日のデモ行進のほとんどが開かれている。Nasha Nivaのようなメディア・ソースは、抗議が始まって以来30,000人以上が拘束されたとみている。独立した立場で調査と監視を行うProject 23.34は、これまでに3200件以上の拘束について調査している。それによると、回答者の3分の1が身体的暴力を受けており、その多くが30歳未満の若者であった。さらには、144人の政治犯が拘置されたままである。だからこそ、この衝撃的な現実を乗り越えなおかつ国家暴力に抵抗し続けるため、抗議行動の一端が地元界隈へ移ったのだ。

変わっていないものとは。古くても今なお人を動かす象徴と言えるものとは。それは、旧国旗の白・赤・白の旗である。政権が緑・赤の旗を使用している状況において、ミンスクおよび国中の主要都市の街頭でこれほど多くの白・赤・白の旗を目にすることも、この旗が何かの象徴として使われることも有識者は全く予想していなかった。政権がその旗を悪のように扱うからこそ、市民は反ルカシェンコと反独裁の象徴、また抗議行動での結束を象徴するものとしてその旗を掲げることを決めた。旗に新たな意味を与えたのだ。

典型的なゴプニクの図を配したホメリ市セルマッシュ地区の旗。写真:ドミトリィ・ノヴィコフ。使用許諾済み。

再び白・赤・白の旗を街頭で見かけるようになると、人々は自分の地区とその周辺の町を表す、まさにその土地ならではの白・赤・白の旗を作り始めた。わずか数週間のうちに、都市や町、地区、ときにはミンスクの街路にまで、それぞれ独自の新しい旗が考え出された。ベラルーシでは地元への帰属意識が実に強く、長い間社会への帰属意識はその地元の特異性を誇る農民文化に根ざしている。今では、そういう独自の旗が文字通り何百種類とあり、異なった型やサイズで印刷され、窓や壁のみならず自動車、抗議のプラカード、衣服までもを装飾している。

注目すべきことは、神聖なものだった過去の象徴が「大衆のもの」になっていったその過程である。新しい旗と紋章が今風のポップカルチャーにもつながっていったのだ。例えば、ベラルーシ第3の都市であるホメリ市のセルマッシュ工業地区は、旗にゴプニクのキャラクターを取り入れた。ゴプニクとは貧しい生い立ちとお粗末な教育、特有の音楽と服装を連想させる、旧ソ連の都市で発達した都会のサブカルチャーの象徴である。

「中庭革命」というものを聞いたことがあるだろうか。

11月24日(原文ママ)、31歳のロマン・ボンダレンコがミンスク市内の中庭で、白・赤・白のリボンを外そうとやって来た身元不明の一団と出くわした。ボンダレンコは殴打され、のちに病院で死亡した。

ボンダレンコが暴力を受けた中庭にあった白・赤・白のリボンは、まさに地域密着の活動表現のひとつであった。当初このような中庭は、抗議が始まってからの数日間は避難所として利用された。近隣の住民が機動隊から逃げる抗議者を匿ったというわけだ。現在、抗議者たちは散発的かつ分散的な市民抵抗活動を実行することで、ミンスク市内の広場を取り戻しつつある。抵抗活動の中にはインタラクティブマップのプラットフォームDze.chatを使って行われるものもある。ベラルーシでは、暗号化されているメッセージングサービスTelegramが最も利用されており、その地域のチャンネルがDze.chatで表示される。ミンスクに住むブロガーのアントン・モトルコに刺激を受けたこの計画はすぐに、地域社会の自己組織化のため欠かせない手段となった。それによって郊外でのデモ行進が続いたのだが、旧ソ連から独立後のベラルーシ史上これまでこのようなデモ行進は一度も起きたことがなかった。

興味がある方はこちらの記事もご覧ださい:Belarus 2020: A course to decolonisation?

このようにボンダレンコの事件後、中庭には新しい役割が生まれた。最近作られた旗は、その図の背後にあるものを知りたいという人々のさらなる好奇心をかき立てている。人々は詩人やミュージシャン、クリエーターをステージコンサートや講演、ワークショップ、そして映画上映会に招待してきた。これらはベラルーシでは前例のないことである。しかし、ボンダレンコの場合のように無事に終わらなかった催し物もある。例えば、9月21日にはロックミュージシャンのアレクサンダー・ポミドロフとレスリー・ナイフが逮捕され、二人は留置場で数日過ごした。

また、国民的人気を得ている活動もあり、そういうものはネット上で再び見ることができる。国内の主要な文化施設であるヤンカ・クパーラ劇場では劇場長のパーヴェル・ラトゥシコが反ルカシェンコデモを支持したため解雇され、その後8月になって劇場関係者が一斉に退職した。この出来事以来、アングラとなった俳優たちが中庭の英雄になっており、彼らのYouTube channelは、15万人の視聴者を集めるほど人気が高まっている。J:Morsというロックバンドは9月12日にバルコニーで即興コンサートを開催したが、かろうじて逮捕を免れた。そのときの演奏がこちらのユーチューブ動画で視聴できる。

コンサートは、現在ミンスクでPloshcha Pieramien(変化の広場)と呼ばれている場所を見下ろすバルコニーで行われた。かつては正式名称もないありきたりな中庭だった「変化の広場」は、ベラルーシで広く知られるようになった。そこは二人のDJが描かれた壁画のある場所だ。そのDJは公式行事でヴィクトル・ツォイの有名な曲「Peremen」(ロシア語で「変化」の意)を演奏し、旧ソ連時代末期の反体制思想を賞賛したとして警官に拘束された。壁画は警察に監視されたり、塗りつぶされたり、描き直されたりを繰り返している。

「変化の広場」は元気なロマン・ボンダレンコが最後に目撃された場所であることも伝えておく。

抵抗活動が起こっただけでなく自己統治も実現した影響力のある場、というのが中庭への新たな認識である。口コミやネット上の画像、さらには新聞記事の見出しに名前が出ることにより、今では少しずつ一般大衆の中庭利用が進んでいる。

地域のベラルーシ人コミュニティーとともに起きるべくして起きた、民衆に根ざす本物の活動のこれらすべての方法が新しいベラルーシ社会を築く。地域コミュニティーの確固たる態度と支援が、今年の終わりなき抵抗活動に影響を与える要因になっている。新しい社会を目指す活動は進むべき方へ向かっていく。地方レベルの小さな活動から国レベルの大きな活動へ、そしてさらには世界規模へと発展するのである。

この記事は、プラハに拠点を置く出版およびメディアトレーニング機関であるTransitionsとの提携のもと公開可能となった。

ベラルーシの混乱状態については、こちらもご覧ください。

校正:

Shigeru Tani

原文 Ales Plotka 翻訳 Miki Masamura · 原文を見る [en]

この記事 はGlobal Voices 日本語版から配信されています。

この記事はいかがでしたか?