【伊藤鉦三連載コラム】山田政権発足直後になんと「星野氏、阪神監督就任」

山田監督の就任会見。左は白井オーナー

【ドラゴンズ血風録~竜のすべてを知る男~(16)】星野監督第2次政権最後の年となった2001年に私はチーフトレーナーを退きました。トレーナーという仕事は選手のコンディションに常に気を配らなければなりません。誰よりも早く球場入りし、遠征時にはホテルで夜中の2時、3時までマッサージをすることもあります。50代半ばになると肉体的にもしんどくなってきていました。そこで球団と相談してメディカル担当として一、二軍全体を統括しながら選手のコンディショニングをバックアップする立場となったのです。

さて星野監督が辞めた後の02年から監督に就任したのが山田久志さんです。阪急黄金時代を支えた通算284勝の大エースですが、1998年オフに宮田投手コーチを巨人に引き抜かれた星野監督は「日本で一番の投手コーチを」と三顧の礼でドラゴンズに迎え入れました。99年にドラゴンズが優勝できたのも星野監督を支えながら投手陣をしっかりと整備した山田さんの力があったからこそでしょう。

山田さんはクレバーで何より気配りと思いやりのある方でした。山田さんが投手コーチとしてドラゴンズに加わった1年目(99年)の8月のことです。チームは優勝争いの佳境でしたが、東京への移動日に山田コーチから「今中のところに行こう」と誘われたのです。この年、今中は左肩の故障で一軍登板は5試合だけ。数日前に福岡の病院で左肩の手術を行い入院していました。そこで飛行機に乗って2人で見舞いに行ったのです。

病室に着くとそこには山田さんの名前が入った蘭の花が飾ってありました。手術をした今中の回復を願ってすでに贈られていたものでした。病室にいた時間はほんの10分ほど。それほど多くの言葉を交わしたわけではありません。すぐに飛行機に乗って東京へと向かいましたが、私は山田さんの行動に感心させられていました。シーズン中に故障した選手の見舞いにコーチが行くことはほとんどありません。ましてや今中が入院していたのは福岡の病院です。

今中はドラゴンズのエースとして何年も肩を酷使しながら投げてきました。その男がチームが優勝を争っているときに投げることができない。きっと歯がゆかったと思います。山田さんが東京へ移動する前にわざわざ福岡まで足を運んだのは長年ドラゴンズを支えてきた大エースへの敬意の気持ちと「オレは待っているから」ということを伝えたかったのだと思います。

そんな山田さんだけに私は星野監督の後を継いでドラゴンズの監督になるのにふさわしい人だと思っていました。01年オフに就任した山田監督が私に現場のトレーナーに復帰してほしいと漏らしていたことをあるコーチから聞いたときには、ありがたい気持ちと同時に申し訳なさでいっぱいになりました。

ところが山田政権発足直後、信じられないことが起こります。「星野氏、阪神監督就任!」。山田監督をバックアップするはずだった星野さんが何とライバルチームに行ってしまったのです。

☆いとう・しょうぞう 1945年10月15日生まれ。愛知県出身。享栄商業(現享栄高校)でエースとして活躍し、63年春の選抜大会に出場。社会人・日通浦和で4年間プレーした後、日本鍼灸理療専門学校に入学し、はり師・きゅう師・あん摩マッサージ指圧師の国家資格を取得。86年に中日ドラゴンズのトレーナーとなり、星野、高木、山田、落合政権下でトレーナーを務める。2007年から昇竜館の副館長を務め、20年に退職。中日ナイン、OBからの信頼も厚いドラゴンズの生き字引的存在。

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