人類初の宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンの飛行から今年の4月12日で60年

【▲ ボストーク1号に乗り込んだユーリ・ガガーリン(Credit: RGANTD)】

日本時間1961年4月12日15時7分、ソビエト連邦(当時)のバイコヌール宇宙基地から人類史上初の有人宇宙船「ボストーク1号」が打ち上げられました。搭乗していたのは空軍パイロットのユーリ・ガガーリン。今年の4月12日で歴史的なボストーク1号の飛行から60周年を迎えます。

■有人宇宙活動の幕開けとなった地球1周108分の飛行

【▲ ボストークロケットの打ち上げ(Credit: Roscosmos)】

当時のソ連はアメリカと冷戦状態にありました。互いに核兵器を保有する両陣営は、核弾頭を運搬するミサイルと表裏一体であるロケットの開発に力を注ぐようになります。日本時間1957年10月5日、ソ連のセルゲイ・コロリョフ率いるチームは大陸間弾道ミサイル「R-7」を元に開発されたロケット「スプートニク」を使い、人類史上初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げに成功。西側陣営にスプートニク・ショックをもたらしました。

ボストーク1号による人類初の有人飛行は、スプートニク1号の打ち上げから3年半後に実施されました。ガガーリンを乗せて現地時間4月12日朝9時7分に打ち上げられたボストーク1号は地球周回軌道(遠地点高度327km、近地点高度181km)に乗ることに成功。人間が宇宙空間を探索できることが初めて実証されました。地球を1周した後に大気圏へ再突入したボストーク1号のカプセルは、打ち上げから108分後の現地時間10時55分、ロシア南西部にあるヴォルガ川沿いの都市エンゲリスから南西26kmの地点に着陸しました。

【▲ 着陸したボストーク1号のカプセル(Credit: Novosti/alldayru.com)】

ボストーク宇宙船の直径2.3mのカプセルには、打ち上げでトラブルが起きた時や地球への帰還時に宇宙飛行士を船外へ脱出させるための射出座席が備えられていました。ガガーリンは高度7kmで船外へ射出された後に、パラシュートを使って地上へ降り立っています。思いがけずガガーリンの帰還に立ち会い、明るいオレンジ色の宇宙服に身を包んだ彼がパラシュートを引きずる様子に驚いて立ち去ろうとした地元の親子に、ガガーリンは「怖がらないで」などと声をかけたと伝えられています。

【▲ 帰還後のガガーリン(左)とソ連最高指導者(当時)のニキータ・フルシチョフ(右)(Credit: RGANTD)】

打ち上げ直後に中尉から少佐へ昇進したガガーリンはソ連の英雄となり、日本を含む世界各地を訪問しましたが、万一の事態で英雄が失われることを当局が危惧したために、ガガーリンの宇宙飛行はボストーク1号が最初で最後の経験となりました。

大佐へ昇進した後の1967年4月に打ち上げられた「ソユーズ1号」ではウラジミール・コマロフ飛行士のバックアップに任命されたものの、さまざまなトラブルが発生したソユーズ1号は帰還時に地上へ激突し、コマロフ飛行士は殉職。宇宙飛行からいっそう遠ざけられることになったガガーリンは、1968年3月に飛行訓練中の墜落事故で命を落としています。

【▲ ボストーク1号へ乗り込む前のガガーリン(手前左)を見送るコロリョフ(手前右)(Credit: RGANTD)】

ガガーリンといえば彼の言葉として伝えられている「地球は青かった」が有名ですが、当時録音された音声記録には、打ち上げ時に「パイェーハリ」(英語で「let’s go」、日本語で「さあ行こう」の意)と発した彼の声が残されています。この言葉は、ボストーク1号の打ち上げから8年後にアメリカ航空宇宙局(NASA)が成し遂げた「アポロ11号」による有人月面着陸や、2000年11月の開始から20年以上が経った現在も途切れずに続く国際宇宙ステーション(ISS)での長期滞在、そして将来の月や火星などでの有人探査へと続く、人類の有人宇宙活動の幕開けを告げるものとなりました。

なお、R-7をもとにしたロケットはその後も発展と改良が続けられていて、現在では有人宇宙船「ソユーズ」や無人貨物船「プログレス」などの打ち上げに用いられるソユーズロケットが活躍しています。コロリョフは1966年1月のがん手術中に亡くなりましたが、その遺産は今も宇宙開発に貢献し続けています。

【▲ 発射場へと運ばれるソユーズ2.1aロケット(Credit: GK Launch Services)】

Image Credit: Roscosmos
Source: Roscosmos / ESA
文/松村武宏

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