民営上水道の歴史に幕 明治初期から140年…島原の住民生活支える

水源施設の一つ、かまぼこ型貯水槽の前で民営上水道について説明する松尾さん=島原市西八幡町

 島原市湊新地町の民営上水道が昨年12月に廃止された。明治初期、住民自ら整備し、約140年にわたって地域生活を支えてきた。修理を繰り返しながら、1960年に公営上水道が整えられた後も雑用水として利用。全国的にも珍しい民間の水道施設だったが、老朽化などに伴い、その歴史的役割を終えた。

■先人の苦労
 廃止された水道の水源施設を訪ねた。落成や改修の日付などを刻んだ石碑、石の祠(ほこら)、昭和初期のものとみられるコンクリート造りのアーチ型(かまぼこ型)貯水槽などが今も残る。ここから湊新地地区まで、地中や河床に配水管を敷設し、水を送った。先人たちの苦労がしのばれる。
 施設が完成したのは1881(明治14)年8月。国内初の公営都市水道である横浜の給水開始より6年早く、水道の普及と市町村による経営を定めた「水道条例」が制定される9年前のことだ。
 島原では、雲仙山系の伏流水が各地で湧き出る。「水の都」と呼ばれる由縁だ。ところが、湊新地地区は明治初期に海上を埋め立てた造成地のため、井戸を掘っても生活用水が確保できなかった。
 そこで、当時の住民らは周辺を調査。同地区から約600メートル西の丘陵の麓(現・西八幡町)に湧水源を発見した。地形の高低差を利用し、小高い丘に建てた施設から配水管を通し、地域に水を引いた。
 水源施設を管理する同町町内会長の松尾豪彦さん(74)によると、住民約20人が水源の土地を買うためにお金を出し合った。昭和の中ごろまで、100世帯以上が飲料水として利用。1960年に公営上水道ができた後も、庭の散水などで使われたが利用者は年々減少。直近では10世帯未満だったという。

■地元の誇り
 民営上水道廃止の直接的な理由は、市が昨年10月から今年2月にかけて実施した石造りのアーチ橋「新地橋」(1870年築)の解体・移設工事。新地橋には配水管が伝っている。配水管は老朽化し、同町内会としては維持管理費の負担増には絶えられない。漏水事故への懸念もあった。
 こうした状況から、同町内会は廃止を決断。昨年12月、新地橋の配水管が切断され、1世紀以上の歴史に終止符が打たれた。
 島原半島ジオパーク協議会の専門員、森本拓さん(28)は「人々が自然と関わってきた歴史や、巧みに利用してきた暮らしが垣間見える」とジオサイト(見どころ)としての魅力を語る。
 松尾さんは「地元の誇り。民間が水道事業をしていた歴史と先人の先見性を知ってほしい」と訴える。よりよい状態で水源施設を後世に残すためにも「安全性が担保できれば、遺構として一般に公開したい」と話す。

配水管が切断され、解体・移設作業中の新地橋=島原市湊新地町

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