1年越し高田藩士に合掌 広島県海田町 明顕寺の檀家ら来越 長州征伐で敗北「戦死之碑」訪れ

 幕末の第2次長州征伐(1866年)で戦死した高田藩士の墓がある広島県安芸郡海田町の明顕寺の檀家(だんか)ら8人が8日から10日まで、上越市を訪れた。10日は金谷山にある「高田藩士慶応丙寅戦死之碑」の前で手を合わせた。

百本総代らが金谷山にある「高田藩士慶応丙寅戦死之碑」に手を合わせた

 高田藩は同町に陣を構え、藩境の小瀬川などで長州藩と戦ったが敗北した。高田藩は戦死者の永代供養料を払い、矢賀村(現広島市)の覚法寺に墓が建立された。50年後の節目に明顕寺に墓が移され、その際に旧高田藩和親会の協力で連絡を受けた戦没藩士の遺族も寄付した。

 一昨年に同寺の境内区画整理に伴い墓の場所が移動した。その落慶法要には榊原家17代当主の榊原政信さんと岩田武理事長ら和親会も参列した。その縁で同寺の檀家らが昨年に高田訪問を計画していたが、コロナ禍のため延期となり、今回実現した。

 一行は総代の百本政喜さんら同寺の檀家と西国街道・海田市ガイドの会(百本邦子会長)の会員。和親会の案内で榊神社や上越市立歴史博物館、観桜会の夜桜などを見学した。郷土史を研究している土本誠治さんは金谷山の碑が「藩が引き揚げる際に墓を造るのは珍しい。他にないのではないか」と説明した。ガイドの会の百本会長は「高田藩士の墓は海田町の観光では有名な部類。さらにPRしたい」と話した。

 秋には和親会が海田町を訪問する計画があるという。

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