長崎市の歌人、前川明人さん(93)が第9歌集「頓着」(本阿弥書店)を出版した。歌歴70年以上で紡がれる骨太で味わい深い約400首。中でも脳裏に焼きついて離れないという76年前の長崎の「あの日」を詠んだ歌々が、争いが絶えない今の世のありようを静かに問い掛ける。
1928年同市で生まれ、幼少期は東中町(現・上町)や浜口町、大橋町など市内を転々とした。山里小を卒業後は当時麹屋町にあった長崎逓信講習所に入学。戦時中で、小学校を卒業後は兵隊の道に進む人も多かったが、同講習所の難試験を突破し、電報の送受信を担う電信員を目指した。
郵便や電信の法規を学び、受信したモールス符号の「トンツー」音を聞いてタイプライターで文字にするなどの訓練に励んだ。
44年4月から長崎本博多郵便局(現・万才町)に勤務。45年6月に通信書記補に任官し、責任ある立場になった。当時17歳。高台にある大きな2階建ての局舎で、胸に付けた緑色のバッジを誇らしく思いながら働いた。
電話よりも電報が普及した時代で、戦時下ということもあり利用者が多かったという。私信よりも三菱造船所や三菱長崎製鋼所などから船の進水や機材に関する緊急の官報が増え、多忙を極めた。
不恰好な防毒面かぶり し日もありき勝つため だったか死ぬためだったか
探照灯狂いたるごと交 差して敵機をついに捉 えし夢見き
戦局が厳しさを増すと長崎もたびたび空襲に見舞われるようになった。空襲警報が鳴れば夜中でも鉄かぶとを頭にかぶり、足にはゲートルを巻いて、大浦・日の出町の自宅から同局まで走った。大事な電信の機械を守るという一心だった。
「どうせ戦争で死ぬ、長崎もいつか壊滅するだろうと言って、戦争に志願して行く同僚も多かった。19歳になったら召集ですから、それよりも早く軍に入って階級が上がりたいというのがある。(郵便局に)残った方が大変だと思っていましたね」
「赤い背中」の写真を 国連で掲げたる被爆者 谷口も遂に果てたり
電報配達の詰所に坐り いし谷口を見たりしは 原爆の前日だった
同局には原爆で背中に重い火傷を負った被爆者の谷口稜曄(すみてる)さん(故人)も配達員として勤務していた。原爆投下の前日、電信係の隣の部屋で座っていた姿が印象に残っている。「その頃、彼は16歳。本当にあどけない、かわいらしい少年だった」
長崎に原爆が投下された8月9日は、午前7時に出勤し、1階の電信受付窓口にいた。タイプライターで打たれた原稿に間違いがないかを検査して、配達へ回す作業に忙殺されていた。
午前11時2分、辺りがぱっと光って、間もなく強烈な衝撃に襲われた。