「きのこ雲の色は、ピンク色 気持がわるい雲」 被爆者故田中さん画集 5月末まで長崎原爆資料館 息子・孝さん「体験伝える役に立てば」

行信さんが描いたきのこ雲の絵。唐八景から見た光景とみられる(長崎原爆資料館所蔵)

 27年前に亡くなった長崎市の被爆者、田中行信さん=享年(74)=が、原爆投下直後の街並みや人々の様子を描いた画集が同市平野町の長崎原爆資料館で展示されている。遺族が遺品整理中に見つけ寄贈した。息子の孝さん(72)=同市かき道2丁目=は「家族も知らない状況が詳しく描かれている。被爆体験を伝える役に立てば」と話す。
 孝さんや同館によると、行信さんは被爆当時、陸軍兵士として同市の唐八景陣地で敵機の来襲を警戒する任務に当たっていた。原爆投下の1時間後から1カ月近く、市街地一帯を移動しながら住民や兵士の救護活動に奔走したという。
 行信さんの作品は21点あり、戦後30年以上たってから描かれたとみられる。唐八景から見た原爆投下直後の市街地を描いた作品は、赤い火の玉が光った後にきのこ雲が立ち上り、市中心部で火の手が広がった様子を3枚組で表現。「きのこ雲の色は、ピンク色 気持がわるい雲」などと説明文も添えられている。大橋町付近の線路周辺に多くの人や馬が倒れている様子や、負傷者が詰め掛けた城山町付近の救護所など、救護活動の中で目にした悲惨な状況も描かれている。
 孝さんによると、行信さんは生前、被爆体験を家族に語ることは少なく、画集は行信さんが1994年に亡くなった後に写真アルバムの中から見つかった。画集の表紙には「世のため、平和のため」という文字も。孝さんは「父の心中は分からないが、きちょうめんな性格だったので昔を振り返ってきちんと記録に残したかったのでは」と推し量る。
 市は被爆75年の昨年度、個人や関係機関が保管する被爆資料の廃棄や散逸を防ごうと、市内の被爆者に寄贈を直接呼び掛けるなどして資料収集事業を強化。県内外の28人から計319点が集まった。その中から、今回は行信さんの作品をはじめ原爆の熱線で焼け焦げた阿弥陀如来像など計53点を展示している。5月末まで。

田中行信さんが救護活動中に見た市街地の様子などを描いた画集=長崎原爆資料館
行信さんが描いた大橋町付近の様子。線路に多くの人や馬が倒れている(長崎原爆資料館所蔵)

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