かつて宿の夕食を彩った器、「新しい縁繫いで」と販売 福島・いわき湯本の温泉旅館、思い出込めて

思い出の詰まった皿を見つめる大場ますみさん

 福島県いわき市湯本の温泉旅館「岩惣(いわそう)」が、かつて夕食の盛り付けに使っていた食器をフロントで販売している。東京電力福島第1原発事故後、夕食の提供をやめてから倉庫に眠っていたものだ。おかみの大場ますみさん(66)は「食器にはひとつひとつにたくさんの思い出があります。もう宿では使えないけれど、また新しい縁をつないでくれれば」と話す。(共同通信=坂野一郎)

 ▽海の幸

 岩惣の1階ロビーの一角には、刺し身用の青い大皿、茶わん、黄色の小皿など、色とりどりの食器が並ぶ。旅館で提供していた夕食を彩った、大切な食器だ。「亡くなった大おかみさんとあれこれ話しながら、楽しく選んでいました。いいお皿はお客さまも喜んでくれますし、料理をつくる板前さんにもインスピレーションがわいて、気合が入ります」。大場さんが値札のついた皿を前に説明する。140円程度の湯飲みもあれば、2千円程度の大きな刺身皿もある。どれも購入時の価格から比べればかなり安くしてある。「あっ、これ、私の好きなお皿です。黄色でかわいいでしょ。キンキとか、赤い魚を乗せるときれいなんですよ」。器には、その数だけ思い出が込められている。

お気に入りの黄色い皿。1300円の値札がついている

 1951年創業の岩惣は食事が自慢の宿で、いわきの海でとれた海の幸をふんだんに使った海鮮料理が評判だった。ヒラメの刺し身にメヒカリの天ぷら、冬場はアンコウ鍋も人気で、部屋出しの夕食を目当てに宿を訪れる客も多かった。その料理を彩ったのが、色とりどりの皿だった。皿を見れば、あの頃の雰囲気が思い浮かぶ。慌ただしい調理場で、板前が真剣な表情で料理をつくる。できた料理を、仲居がいそいそと部屋に運んでいく。ふすまを開ければ、食卓を囲むお客さんたちの笑顔があった。

 ▽消えた「味」

 2011年3月11日の福島第1原発事故で状況は一変した。いわき湯本は同原発から50キロ弱。旅館には地震による大きな被害はなかったが、大場さんも埼玉県への避難を余儀なくされた。避難先でどんなプランなら再開できるか策を練った。同3月26日に原発関係者向けに営業を再開したが、主に早朝に出勤する技術者の宿として機能し、一般客はとらなかった。翌年春に一般向けの営業も再開しても、客足は思うようには戻らなかった。海の幸を届けてくれる漁業も大打撃を受けた。福島県沖では原発事故後、全面的に漁を自粛。事故前の10年は約2・6万トンの漁獲高を誇ったが、再開後の13年は約400トンにとどまった。20年でも震災前の2割以下にとどまっている。

 いわき市によると、湯本温泉を訪れた観光客は10年に59万人だったが、原発事故を機に一般客が減り、19年には5割を切る29万人に。そこにコロナ禍が追い打ちをかけた苦しい状況だ。

「180円」の値札がついだ湯のみ

 岩惣は後継者への負担なども考え、2018年12月に夕食の提供をやめた。予約を受けるのは、素泊まりと朝食付きのプランだけとなった。「心やわらぐ味の宿」としていた屋号の枕言葉も、「心やわらぐ宿」と変えた。大場さんは「夕食をやめたなら行かない、という方もいましたし、勘違いする人がいるといけませんのでね」と落ち着いた口調で話す。

 ▽またどこかで活躍して

 夕食をやめて、食器は使わないから、倉庫にしまった。朝食の提供は続けているが、ほとんどの食器に出番はなく、眠っているだけだった。「大切にしてくれる人に使ってほしい」。そんな思いがわき、19年から格安で売り始めた。「亡くなった大おかみさんが生きていたら、売れなかったかもしれません。でもしまったままにしておくくらいなら、またどこかで活躍してほしいな、と思ったんです」。すると、食器を目当てに来てくれる客も出てきた。

ロビーの一角に設けられた食器販売コーナー「福器や」

 一方、コロナ禍で観光客が激減した状態が続いている。「震災のときとは違って、頑張っていますから来てくださいとも言いにくいのがつらいですね」。さらに今年2月13日に福島・宮城を最大震度6強の地震が襲った。だが、食器はすべて無事だった。「器は、割っちゃえばそれまでだけど、大事にすれば末代まで使えるんです」。東日本大震災も今回の地震も耐えた自慢の食器たちがつないでくれた新しい縁を、大切にしようと考えている。 

 少しずつ売れて、倉庫の食器も少しずつ減っている。思い出の皿がなくなっていくのは寂しくはないんですか、と記者が尋ねると、大場さんは笑って答えた。「実は、本当にお気に入りのお皿は少し同じものをとっておいてあるんです。やっぱり思い出が何もなくなっちゃったら、寂しいですから」

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