安土城は何が画期的だったのか 研究者の間で続く「争論」とは

安土城天主南面の復元図。ほかにも案が示されており、決着していない=提供・愛媛大の佐藤大規助教

 織田信長が住まう「天主」が、安土山(滋賀県近江八幡市)にそびえたった。壮大な「塔」と当時の宣教師らが言い表した高層建築は、標高199メートルの山頂からさらに45メートルを見上げた。1576年の築城に前後し、「上様」と称されるに及んだ信長。足利将軍家に成り代わり、天下人の存在感を示さんとする象徴空間を出現させた。

■3点セット

 手だてに用いた新機軸は何か。「石垣、瓦、礎石建物の3点セットでの導入にある」。城郭史に詳しい中井均・滋賀県立大名誉教授はこう強調する。

 各パーツは中世の城で部分的に用いられていたが、同時に全てを用いた例はなかった。これを大量に用い、かつ組み合わせる中で、10メートル級の高石垣で覆って隔絶し、礎石建ちで金箔(きんぱく)瓦をふいた天主(地上6階・地下1階)が立つ主郭部などをつくり上げた。

 「戦国期の城はいわば山を切り盛りした土造りの城だった。だが、信長の石造りの城は、軍事優先の戦国山城とは一線を画し、政治的な機能を併せ持つ『見せる城』になった。革命的変化が起きた」(中井氏)。

■危うさ隠す

 天主は五色に彩られたという。『イエズス会日本年報』などによると、各層が違う色にみえ、金柱の望楼や朱柱の八角堂のほか、青の瓦、白の壁、黒の窓を備えていたようだ。

 壮麗さは、何も天下人の盤石さゆえではない。73年、信長は将軍・足利義昭を追放し、京の中央政権を単独で担わざるを得なくなる。一方、義昭が戦国大名・毛利氏のもとで反信長の檄(げき)を飛ばし続けたため、戦いに明け暮れる日々にあった。

 危うさを隠し、権勢を誇示するためか、内部の荘厳にもこだわった。絵師の狩野永徳、錺師(かざりし)の躰阿弥(たいあみ)、金工師の後藤家ら京の職人技を集成したさまは、側近の『信長公記』に詳しい。

 とりわけ天主は、信長の政権指針も映しているとみなされ、従来の研究では独裁性や専制性が見いだされてきた。

 一因は中国関連の画題や飾りを多用していた点にある。最上階の6階には三皇五帝や孔子十哲という伝説の人物を配した上、5階には釈迦説法図などによる仏教的な世界も現していた。自らを中国皇帝にもなぞらえて「天皇や将軍とは異なる地平に立つ」(池上裕子氏『織田信長』)という超越者志向を見て取る。

 一方、近年の「革命児・信長」像の見直しに伴い、異論もある。天皇と信長がともに補い合う公武王権を志向した現れといい、「むしろ同時代の社会秩序を保障しようとする者の意志」(柴裕之氏『織田信長』)と解する。天主そばに「行幸の御間」を備えた建物を築いて天皇を迎えようとしたが、延長線上の動きとしてとらえ直されている。

 1582年の本能寺の変で信長が討たれた直後、天主は炎上する。織田家の威光を放った高層建築は夢幻についえたが、権力を継いだ豊臣秀吉や徳川家康は、天下人の象徴たる「天守」を居城の真ん中に築き続けることになる。

■屋敷跡名に疑義も

 安土城が近世城郭成立の画期になったことは、多くの研究者で一致する。ただし、画期性の在りかをはじめとして、多くの争論がある。

 中井均氏が「石垣、瓦、礎石建物の3点セット」のパーツ展開を提起したのに対し、奈良大の千田嘉博教授(城郭考古学)は「城の構造にある」との立場だ。

 天主のある主郭部を頂点に、「求心的」「階層的」に家臣屋敷などを並べる曲輪(くるわ)配置が確立され、戦国時代の並立的な配置から一変したとの見立てだ。「近世社会の構造と一体となった城のかたち」(『城郭考古学の冒険』)をなし、後の城と城下町を通じた身分制居住の兆しをみる。

 半面、中井氏が挙げる三要素は「表層」の特色とみなす。関東や東北ではこのパーツを持たない城も築かれることを踏まえ、「『完全な』近世城郭は成立しなかったことになってしまう」と疑義を示す。「城から個性豊かな地域の歴史を読み取ることを放棄しているのに等しい」
       
 千田氏の説く城の構造論に対し、中井氏は「戦国時代の山城と何ら変わらない」と切り返す。

 山頂から階段状に展開してゆく曲輪配置は、むしろ浅井氏の「小谷城」などの戦国大名の山城に似通っているとみる。

 階層性への疑問は、重臣らの屋敷が安土城内にあったという考古的な痕跡が見つかっていない点にもある。「戦争続きで、重臣は領国や戦地で多くを過ごしていた。城内に屋敷を持つ必要がなかった」。平面図には「伝羽柴秀吉邸跡」「伝前田利家邸跡」と記されているが、この屋敷名は江戸時代の絵図に基づく後世の想像に過ぎない。なお、伝羽柴邸跡を信長の山麓居館だったと推測する。

 「山頂の主郭部に加え、山麓にも信長居館があったとすれば、城の構造は二元的な戦国山城そのものといえる。信長公記が安土城ではなく『安土山』と記している点が大いに物語っている」(中井氏)。
       
 こうした争論の背景には、20年間にわたる滋賀県教委の発掘調査成果が2008年度までに公開された点がある。報告書を通じて研究を進めたのは確かだが、異論も目立ってきている。

 例えば、伝本丸跡を天皇を迎える御殿と考察したことに対し、建築史家の川本重雄・京都女子大元学長は「虚像」と言い切る。

 県安土城郭研究所長だった藤村泉氏は、天主近くに「行幸の御間」があったとの信長公記の記述に、礎石跡の配置が豊臣秀吉期の内裏清涼殿を思わせるという考察を重ねて、この説を唱えた。だが、川本氏は「行幸に求められたのは清涼殿ではなく、天皇の居所を含んだ御常御殿だ。山頂に御殿を建てようにも、天皇の出入りや儀式に欠かせない南階や南庭を備えられる空間がない」と否定する。

 文献や絵図などの史料が限られる安土城研究において、県教委の報告書は重要な基礎データになっている。それゆえに、伝羽柴邸跡の名付けなどは見直し、さらなる学術的な調査を求める声は根強い。争論に及んでいる研究者同士にあってもこの点では一致をみる。

■「穴太衆の石垣」でも消極論

 安土城の石垣は「穴太衆」が築いた-。近江坂本の石工集団が主導したとのイメージは根強いが、研究では消極論も高まっている。

 安土城では高さ10メートルを超える高石垣が初めて登場し、伝屋敷地も石垣を施す総石垣化された。石垣そのものは、信長が先んじて築いた小牧山城や岐阜城でも用いられてきたが、千田嘉博氏の著書によると、石積み技術にとどまらず、石の選択や運搬方法を含んだ変革だった。「穴太衆をおいてほかにはなかった」。

 一方、中井均氏によると、穴太衆と安土城の関わりは、江戸時代中期の『明良洪範』に記されたものという。半面、瓦や金具などの工人名を書き連ねた『信長公記』に、その名はない。大津市坂本の里坊にある穴太積みの典型例とされる石垣は18~19世紀とみられ、戦国時代の作例はほぼ存在していない。

 「信長の石垣は巨石を用いて積む点に特徴がある。小牧山城や岐阜城の段階からみられ、独自の職人集団が組織化されていた」(中井氏)。石垣をより多用した安土城では穴太衆も在地職人として動員されたが、関わりは部分的とみる。

 飛躍のきっかけは関ケ原合戦後の慶長の築城ラッシュにある。全国で築造や指揮を行い、石垣普請に特化した職能集団として名声を上げていったようだ。

 

天主南面の断面復元図。最上階には三皇五帝などの絵が描かれていた=提供・愛媛大の佐藤大規助教
高さ10メートル級の高石垣。主郭部の建物を隔絶するように築かれている

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