コロナ禍でも「続ける」両親のエール ライフル射撃五輪代表・松本へ

「どんな形でも五輪を開催してほしい」と願う良久さん(左)とみきさん=島原市

 4度目の挑戦で悲願の五輪代表切符をつかんだライフル射撃の松本崇志(自衛隊)。島原市在住の両親、良久さんとみきさんの喜びもひとしおだった。だが、昨年3月、コロナ禍の影響で1年延期が決まった。ショックは大きかった。みきさんが振り返る。「本当に出られるのかと頭の中で巡っていた。仕方ないというのも分かるが、よりによってと思った」

 ■耐えるしか
 4人兄弟の長男として元気よく育った。しっかり者で、よく笑う優しい子。三会小、三会中時代はソフトボールや卓球に励んだ。卒業後、島原工高へ進学。そこで当時のライフル射撃部顧問から「ゼロから出発できる」と誘われた。先輩からは「センスがいい」と褒められた。用心深く、きちょうめんな性格も向いていたのか。めきめきと上達して、2年時の富山国体で優勝を飾った。
 高校卒業前の欧州選手権。参加者が1人行けなくなり、急きょ出ることになった。慌ててパスポートを取って渡欧すると、金メダルを持って帰ってきた。「それから周りの目ががらっと変わった」(良久さん)。日大時代も各種大会で好成績を残した。
 だが、五輪予選だけは結果を出せなかった。2008年北京は惜しくも落選。12年ロンドン、16年リオデジャネイロもだめだった。18歳の時に初めて口にした五輪の夢。ずっと追い続け、ようやく37歳で射止めた。その涙ぐましいまでの苦労を見てきた両親は願う。「何とか開催してあげてほしいという気持ちでいっぱいです…」
 延期決定後、ライフル射撃は内定者をそのまま維持するかどうか決めるのに時間がかかった。世論は五輪中止、延期論が多い。みきさんは「不安でも周りには言えない。黙って耐えるしかなかった」。敏感にニュースを見て過ごし、7月に内定維持の発表があると心からほっとした。

 ■息子が出る
 これまで極力、試合会場に行かないようにしてきた。高校で初めて試合に出る日に射撃場へ行ったが、静かでパチン、パチンと音がする雰囲気に「応援して見るものじゃない」と引き返した。それからも「邪魔したらあれやし。プレッシャーになって負けたらどうしよう」と遠慮していた。
 ただ、今回ばかりは会場で見守りたいと決めている。すでに飛行機やホテルを予約した。滞在期間の宿は半年前から予約できるホテルを、日付が変わる午前0時にインターネットで取った。10分ほどで空きがなくなる状況だったが、どうにか押さえられた。「何かしないと前に進めない。五輪はあるよ、息子が出る」。2人は信じて動いた。
 コロナ禍の影響で、揺れ動いた1年だった。埼玉で暮らす息子のことが心配だが、余計な負担をかけないように競技の話題は避けるように心掛けている。
 みきさんは静かにエールを送る。「持ち前の明るさと底力を奮い立たせることを願うばかり。ひそかに親として長崎から空を見上げ、祈りと応援を続けていきたい」

 


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