デイヴィッド・カヴァデールの愛すべき素顔、プロモーション来日ドタバタ珍道中 1987年 4月22日 ホワイトスネイクのアルバム「白蛇の紋章~サーペンス・アルバス」が日本でリリースされた日

デイヴィッド・カヴァデール、「白蛇の紋章」プロモーションで来日

私自身がディレクターとしてホワイトスネイクを担当したことはありませんが、制作部門の課長時代に新譜が発売されデイヴィッドが来日しました。その機会に彼の素顔に触れる機会があった、というお話です。

1987年、ホワイトスネイクのニューアルバム『白蛇の紋章~サーペンス・アルバス(Whitesnake)』が発売されました。アメリカで初めて成功した前作から既に3年経っています。“新生・ホワスネ” がどう評価されるのか不安だらけの中、今作での復活を期してデイヴィッドとマネージャーの2人が、プロモーション来日をしてくれました。発売日直前のことです。

『ML(MUSIC LIFE)』や『BURRN!』をはじめ、日本の音楽専門誌の領域では “デビカバ” として人気者ですし、こうしたコアメディアでのサポートは万全ですが、今回は気合の新作。ヒットアルバムにするためには、コアからグレーゾーンに広がっていかねばなりません―― なのでプロモーション来日してくれると、一般メディアまで裾野を広げた宣伝体制を敷くことができるのです。

ホストのように逆にもてなしてくれた愛すべきデビカバ

来日アーティストには、取材協力への感謝も込めて会社主催のディナーで “オモテナシ” をします。今回も部次長総出で行われるものと思っていたら、部長は欠席。会社の上司筋が次長1人だけでは、もてなす側としては人員が足りません。そういう訳で、賑わい要員として私も会食に参加することになりました。

ただ仕事的にHM/HR系のアーティストを手掛けたことはありませんし、個人的にも疎い領域です。残念ながらホワスネにも余り興味なかったので、会食時に盛り上がる話題が想像できません。場所はホテルニューオータニの高級和食店。メニューは本人の希望でしゃぶしゃぶ。この場で初めて挨拶し、やや緊張気味に会食はスタート。とはいえ、宴が進むにつれ、これが楽しい時間に変わっていったのです。

こちらが主催したディナーでしたが、むしろ彼がホストのように、我々をもてなしてくれました。彼の方から積極的に話かけてくれるのです。その気遣いに感謝感動です。色々な話をしました。私はちょうど娘が生まれた頃。彼も娘を持つ父親です。

「今は、夜泣いて大変だね。うちは酷かったよ」

―― と、そういう父親話から、互いに10代で体験した60年代ヒット曲の話で盛り上がります。同じ世代であったことが会話を弾ませてくれました。

デイヴィッドは昭和生まれのダジャレオヤジでした。しゃぶしゃぶですから、豆腐ができあがり、私がすくって 「To who?」と振ってみると大ウケです。彼が「俺の時計はロックン・ローレックスだぜ」と言えば、こちらは醤油をもって、「I'll show you」。湯呑みを指して、「Do you know you know me?」とオヤジ同士で盛り上がってます。最後はデザートのハーゲンダッツを指して、「これニナ・ハーゲンが好きなんだぜ!」と締めくくります。愛すべきデビカバ状態… 本人は、そう呼ばれていることをもちろん知っています。

トラブル発生? それでも率先して会話を進めるプロフェッショナル

翌日の大阪行きは私が担当に替わって代理で同行しました。移動の車を考えると、一泊ですし「荷物は少なくまとめてくれ」と頼んでいたにも拘わらず巨大なトランクが2つ。アーティストは自分で荷物を運ぶことがありませんし、ハイヤー1台では絶対無理。スタートからトラブル発生です。大至急、大阪のスタッフに車の追加を依頼ッ。

新神戸駅では、迎えに来た現地の宣伝マン、目の前にトランクがあるのに手伝う気配もありません。「車、こっちです~」と立ち去ってしまいました。そこで、デイヴィッドからキツいひと言。

「キク、俺も長いことやってるけど、自分で運んだのは初めてだ」

そう言われて… 私、青くなります。しかも駅を出るとハイヤーが見当たりません。代わりにジャンボタクシー1台が我々を待っています。ハイヤーは2台頼んだはず――

「イヤイヤ、こっちの方が安くて荷物も一緒に全員乗れます」
「そういうことじゃないんだ」

と… そこで叱っても虚しく、取材時間も迫ってきます。VIPアーティストに対するオモテナシ感全くなしにTV局に。取材を終えて玄関を出ると、今度はジャンボタクシーが2台。何がどうしてこうなるのか…。大阪へ戻る車中での会話は一切なく、この息苦しい時間の長かったこと… デイヴィッドの憮然さを超えた、まさに呆れた表情、忘れられません。

それでも大阪営業所に着くと、彼は所員に笑顔を振りまいて一生懸命仕事します。地元の大事なディーラーさんを15名ほど集め、新譜を聴きながら茶話会もやりました。当時はお店もメディアです。売れるお店には必ず熱いバイヤーさんがいました。だとしても、こういう場では皆さんシャイで無口になってしまうので、盛り上がる訳がありません。しかし、ここでもデイヴィッドが率先して会話を進めてくれます。彼は実にプロフェッショナルでした。

タイミングよくこの最中に、アメリカから情報が入りました。アルバムからの最初のシングル「スティル・オブ・ザ・ナイト」がラジオチャートの上位に赤丸で初登場したとのこと。この時のデイヴィッドの嬉しそうな表情は今でもよく覚えています。ラジオで爆発的にかかり始めたということは、ヒット曲としてギャランティされたという意味です。

日本通でも夜はアーティストだけにしてはダメ…

この日の夕食の後、デイヴィッド達は「サウナへ行きたい」と言ってきました。大阪ミナミで有名な高級サウナ店です。日本通の彼、何でもよく知っています。前日のディナーからすっかり仲良くなっていることもあり、私も彼に対する気遣いが粗くなっていました。その時、私は付き合わず彼等だけをお店に送り届けました。ホテルへ戻る道筋もよく分かっているということで、安心して1人ホテルへ戻りました。朝からずっと一緒だったので離れたかったのです。

そして3時間が経過――

お店の閉店時間が既に過ぎているにも関わらず、彼らはまだ戻って来ません。さすがに不安になりタクシーを飛ばしました。営業が終わり、店の前では従業員が掃除をしています。私はデイヴィッドを心配しつつ尋ねました。

「金髪の外人さん2人、帰りました?」
「いや、なかなか帰られないんで困ってます」

店が迷惑だろうが何だろうが、こちらはまず一安心。ちょうどそこへ頭にタオル巻いたオッサン2人が鼻歌交じりで出てきました。この雰囲気も昭和です。

「へ~イ、キック~」と私を呼びながら、デイヴィッド達はご機嫌でした。何事もなく、ハッピーそうで本当に安心しました。でも、夜はアーティストだけにしてはいけません。猛省です!

誰が大事な人なのかを見抜く気遣いの人、デイヴィッド・カヴァデール

その後、彼は本国に戻ってすぐにモトリー・クルーと全米ツアーに出発しています。そして、ツアー途中からアルバムが大ヒットし800万枚のセールスを記録して大復活! その結果、オープニング・アクトだったホワイトスネイクは、モトリーとのダブル・ビリング(二枚看板)に格上げとなり、夜毎にヘッドライナーを交代することになります。これぞアメリカ興行界の常識ですが、“今、一番客を呼べるのは誰か” ということです。

このツアー中に、私はジャーナリストの先生を連れてLA公演にアテンドしています。この時、ホワイトスネイクはオープニングを担当。終わって楽屋へ行って懐かしくハグして、ゆっくり談笑。モトリー・クルーのショーが始まっても、我々を客席へ戻らせてくれません。ジャーナリストの先生はショーが観たくてウズウズしてましたが、彼はお構いなく会話を続けます。もちろん確信犯です。ショービジネスを生き抜いてきたロックアーティストの性格、メリハリ効いてます。

彼とは、この数か月後に日本公演で再会。それから数年後、洋楽部長となった私は “カヴァデール・ペイジ” プロジェクトで来日公演した彼をディナーのホスト役として迎えています。この時も帰国後に、丁寧なお礼の手紙をくれました。ここまでしてくれたアーティストは彼だけです。自分にとって、誰が大事な人なのかを見抜きます。

そう、気遣いの人、デイヴィッド・カヴァデールです。

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※2018年9月22日、2019年9月22日に掲載された記事をアップデート

カタリベ: 喜久野俊和

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