第1回ドラフトで巨人が堀内恒夫を指名した舞台裏

ルーキーイヤーの堀内

【越智正典 ネット裏】プロ野球第1回新人選択会議はクジ引きドラフトだったが、終わると各球団の戸惑い、不安が映し出されていた。

近鉄は電電九州の投手、19歳の田端謙二郎をいまでいう1位指名したが、育英高校の左腕鈴木啓示を2位に回していた。他球団の第1次選択選手とぶつかるのを避けたのである。銚子商業の木樽正明も、東京(ロッテ)は2位にしていた。

「台風の沢ちゃん」「ツケモノの沢ちゃん」。巨人のスカウト、沢田幸夫は迷いも不安もなく、まっしぐらに甲府商業の投手堀内恒夫を1位にあげて突き進んだ。

巨人というと、選手ではなくても万事がゴージャスだと思われがちだが、そうではない。沢田は物価が安い東京・江戸川区小岩のアパートの一室を借りて住んでいた。家賃は月6000円。同じアパートに若き日の北島三郎が部屋を借りていた。北島三郎は、昼間は音楽学校に通って猛勉強。夜は渋谷で流し。3曲100円。青春の志の二人は意気投合、固く友情に結ばれる。

沢田はどうして堀内恒夫だったのか。堀内は甲子園球児にはちがいなかったが、出場したのは1年生のときのことで、その昭和38年は第45回大会の記念大会で48校が出場している。大会会場は甲子園球場と西宮球場。スカウトの目はそうはとどかない。

このとき、甲府商業のエースは大石勝彦(大洋)。堀内は補欠で投手兼外野手。2回戦で宮崎商業と対戦した0対1の5回二死走者一塁で呼ばれてマウンドへ。2打者に連続デッドボールをぶつけて満塁。ベンチが目をつぶったときにショートゴロに打ち取った。そんなわけで、全国的には無名選手と言ってよかった。

堀内は2年生になる。勝てば甲子園へ行ける西関東大会(山梨と埼玉)に進んだが、決勝で0対1熊谷商工。3年生の夏も熊谷商工が甲子園へ。堀内恒夫は西関東大会の1回戦で熊谷商工の捕手橋本哲夫に本塁打を打たれて負けた。1対2。橋本はその心やさしい人柄からいまでも「哲ちゃん」「哲ちゃん!」と、みんなに慕われている。

沢田は当時、時間を作って中学生の野球を見に行っていた。それは画期的な調査だった。リトルリーグのチームは日本にはまだない。武蔵野市の少年たちが主体の「西東京」が世界大会で優勝するのは42年のことである。もちろん、リトルシニアもまだない。

沢田は、今度は高校野球、高校野球…と40年の早春、甲府を訪れていた。堀内恒夫にとってそれは天運といってもいいのかも知れない。

家は甲府市朝気町の堀内製糸所。おかいこさんである。キレイな絹糸を作る仕事は一年じゅう忙しい。まゆを買う手付金の準備、まゆをゆでる燃料の仕入れ…。近くの農家の女性たちが朝6時には働きにくる。9時半には彼女たちにお茶を出す…。

もし、沢田幸夫が甲府商業の校庭のすぐそばで「オヤ!」と、立ち止まらなかったら、堀内はひょっとするとおとうさんが粒粒辛苦、育てて来た堀内製糸所の後継ぎ、二代目になっていたかもしれない。 =敬称略=

© 株式会社東京スポーツ新聞社