破滅の危機から光へ向かって歩め 核兵器廃絶へ行動促す サーロー節子の言葉

By 江刺昭子

ノーベル平和賞の授賞式で力強く核廃絶を訴えるサーロー節子=10日、オスロ(共同)

 米国で自主制作された映画「ヒロシマへの誓い サーロー節子とともに」が東京、横浜、広島などの映画館で公開されている。広島の被爆者として世界で平和運動を続けているサーロー節子の活動を追ったドキュメンタリーである。(敬称略、女性史研究者=江刺昭子)

 ▽何か書き残しておきたい

 映画の企画は、国籍も年齢も違う3人の女性のおしゃべりから生まれた。

 2014年にウィーンで開かれた「核兵器の人道的影響に関する国際会議」にサーローが出席。今回プロデューサーを務めた竹内道(たけうち・みち)が付き添った。サーローが「年をとり、だんだん旅行も難しくなるから、何か書き残しておきたい」と言いだすと、米国の映画監督、スーザン・ストリックラーがドキュメンタリーを撮ろうと提案したのだ。

 それから4年、サーローの活動に密着して、彼女が参加する核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)が18年にノーベル平和賞を受賞するまでをカメラが追う。映画は19年に完成し、米国でオンライン上映されたが、コロナ禍で日本での劇場公開が遅れた。

 日本公開に当たり、今年1月の核兵器禁止条約発効に関する特別映像を加え、さらに4月17日の公開初日には舞台あいさつもあるというので、封切館に駆け付けた。

 舞台あいさつは、映画制作のキーパーソンをオンラインで結んだ。サーローはカナダ・トロントの自宅で、プロデューサーの竹内は滞在していた福岡から、そしてストリックラーは米コネティカットから登場した。

 89歳のサーローは「この1年間、コロナ禍でカナダに監禁状態で、2度目のワクチン接種を待ちながら、春の訪れを待ち焦がれています」と話した。元気そうな姿にホッとする。

 舞台あいさつが終わると、映画が始まり、モノクロ映像が映しだされた。75年前の広島の街だ。人びとが歩いている。次の瞬間、きのこ雲が立ち登り、街は廃虚と化す。

 「75年間は草木も生えない」と言われた。その予言は覆され、広島は復興を遂げ、繁栄を誇る。たが、核兵器をめぐる状況は深刻化の一途をたどり、人類は破滅の危機に直面している。当時、誰も予想しなかったであろう崖っぷちの状況だ。破滅を回避するために、何をなすべきか。映画はそれをはっきりと指し示す。

 ▽もう一つのストーリー

 サーロー節子は1932年、広島生まれ。広島女学院高等女学校2年のとき、学徒勤労動員先で被爆した。倒壊した建物の下からはい出して命拾いしたが、級友たちは生きたまま焼かれ、親族9人も失った。戦後、米国の大学に進学し、カナダ人の男性と結婚してカナダ・トロントに移住し、ソーシャルワーカーになった。

 平和運動に本格的に関わるようになったのは70年代半ば。広島で原水爆禁止の会議に出席して、平和のために身をささげている被爆者たちに出会い、自分の人生で優先するべき目標がはっきりした。以後、世界各地で被爆体験を語り、核兵器廃絶を訴えてきた。

ICANの会議に参加するためオーストリア・ウィーンを訪れたサーロー節子(右)と竹内道=2014年12月(スーザン・ストリックラー提供)

 ニューヨークの平和団体で証言したとき通訳をしたのが竹内道だった。広島女学院大学でサーローの後輩にあたり、米国でビジネスコンサルタントの会社を経営している。彼女の祖父は原爆投下時、広島日赤病院の院長を務めていて、大けがをしながらも押し寄せる被爆者の治療を指示し、母は祖父の看病のため広島に入り、入市被爆した。

 祖父も母も被爆を語らず、竹内は自分が被爆2世であることをほとんど意識してこなかったが、サーローとの出会いが転機になった。祖父の被爆体験をたどり、母の沈黙の意味を探ったことから、核兵器廃絶の活動に参加していく。撮影が進むに連れて行動を加速させていく竹内の変化が、この映画のもう一つのストーリーでもある。

 ▽一人一人に名前があった

 2017年7月7日、国連が核兵器禁止条約を採択した。画期的なできごとだった。被爆者も、核廃絶を目指す多くの人も、長い間待ち望んでいた。

 そして、この年のノーベル平和賞はサーローが参加する「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)に与えられた。事務局長とともにサーローも、団体を代表して受賞演説をした。サーローはこう訴えた。

 「今日私は皆さんに、この会場において、広島と長崎で非業の死を遂げたすべての人々の存在を感じていただきたいと思います」「一人一人には名前がありました。一人一人が、誰かに愛されていました。彼らの死を無駄にしてはなりません」

 そして自らの被爆体験へ。

広島に原爆を投下した爆撃機エノラ・ゲイから投下直後に撮影されたきのこ雲(米国立公文書館所蔵・共同)

 13歳だった。午前8時15分、目もくらむ青白い閃光(せんこう)を見た。宙に浮く感じがした。静寂と暗闇の中で意識が戻ったとき、壊れた建物の下で身動きがとれなくなっていた。死に直面していた。

 「そのとき突然、私の左肩を触る手があることに気がつきました。その人は『諦めるな、踏ん張れ。あの隙間から光が入ってくるのが見えるだろう? そこに向かってなるべく早くはって行きなさい』と言うのです」

 はい出ると崩壊した建物は燃え、(共に勤労動員された)同級生は燃えて灰と化し、蒸発し、黒焦げの炭になった。

 ▽諦めるな、踏ん張れ、光が見える

 サーローの言葉は被爆の地獄を描きだす。肉と皮膚が骨からぶら下がっている人。飛び出た眼球を自らの手に受け止めている人。腹が裂け、腸が外に垂れ下がっている人。4歳のおいは、肉のかたまりになって、水が欲しいと言いながら死んだ。

 演説の終わり近く、結句ともいうべき言葉として、13歳のとき自らを生に向かわせた声を引いた。

 「今、私たちの光は核兵器禁止条約です。この会場にいる全ての皆さんと、これを聞いている世界中の全ての皆さんに対して、広島の廃虚の中で私が聞いた言葉を繰り返したいと思います。諦めるな。踏ん張れ。光が見えるだろう? そこに向かってはって行け」

 圧巻のメッセージだった。スクリーンに映し出されたノーベル賞の会場と同時に、映画館の観客からも拍手が湧き起こった。それなのに、日本の政府とメディアはサーローの演説にひどく冷淡だったと思う。ノーベル賞に日本人が絡めば、いつもは大騒ぎするのに。

記録映画のためのインタビューを受けるサーロー節子さん(左)=ニューヨーク(共同)

 核兵器禁止条約の批准国は52カ国に達し、今年1月に発効したが、日本は批准していない。その理由として日本政府は、核保有国や非保有国といった立場の異なる国の「橋渡し」をすると強調している。しかし、批准しないまま何も行動しないなら、条約を拒否する国と何ら選ぶところがない。

 ▽外国からの尊敬失う恥ずべきこと

 核保有国である米国はこの条約を拒んでいるが、バイデン大統領は核軍縮に前向きだと伝えられる。もし菅首相が本気で「橋渡し」を考えるなら、今回の訪米で大統領と会見したときに、この問題に触れたはずだが、そのようなことはなかった。共同声明の中で「核」という言葉が登場したのは、北朝鮮の非核化問題以外では次の部分だけである。

 「米国は、核を含むあらゆる種類の米国の能力を用いた日米安全保障条約の下での日本の防衛に対する揺るぎない支持を改めて表明した」

 米国が日本の領土、領空と領海に差し出す「核の傘」。日本はそれを求め続ける。逆に米国から言えば、日本がそこから脱出することを、米国は許さない。そういう趣旨であろう。

 舞台あいさつでサーローは力を込めて言った。「世界の多くの国と国民が、国の安全保障より人間の安全保障という考え方に同意しました」「唯一の被爆国である日本が批准しないのは恥ずべきこと。外国からの尊敬の念を失います」  

ノーベル平和賞の授賞式で、レイスアンデルセン委員長(左)からメダルと賞状を受け取るサーロー節子さん(中央)とICANのベアトリス・フィン事務局長=2017年12月10日、オスロ(共同)

 そして観客に呼びかけた。「政府に独走させてはなりません」。ただ平和を祈るだけではなく、行動してください。自分の思いを代弁者である国会議員に伝えて、代弁者に国会で議論してもらってくださいと。

 遠からず、原爆も戦争の惨禍も誰ひとり直接経験しない「ポスト体験者」の時代がくる。サーローに導かれた竹内やストリックラーのように、わたしたちもできることから始めなければならない。

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