横浜戦災遺族会、半世紀の歴史に幕 父娘から次世代へとつなぐ憲法の理念「大切なことは、全てここに」

横浜大空襲の犠牲者を悼む平和祈念碑。毎年5月29日に犠牲者の氏名と年齢を刻んだ銘板を公開している=横浜市中区の大通り公園

 時は容赦なく、過ぎる。横浜大空襲の犠牲者遺族らでつくる横浜戦災遺族会が4月末で解散した。

 会員の高齢化が影を落とし、半世紀の歴史に幕を下ろしたが、会長を務めた池谷倫代さん(66)は平和継承の継続を誓い、その拠(よ)り所(どころ)に憲法を見据える。

 「主権、人権、平和。大切なことは全て憲法の中にある」

◆焼き魚嫌った父

 1945年5月、父栄一さんは空襲の猛火を生き抜いたが、姉とおいを失った。当時16歳。焦土と化した街をさまよい、数多の遺体の中から2人を捜したが、かなわなかった。

 戦後、夜空に打ち上がる花火の音に降り注ぐ焼夷(しょうい)弾を想起した。焼死体を思い起こすからと焼き魚を嫌った。「父は生涯、戦争を背負っていました」

 83年、父は周囲に請われて2代目会長に就き、平和祈念碑の建立に力を注いだ。犠牲者が平和の礎となっていることを次世代に伝えたいとの思いがあった。

 93年、病を患いながらも横浜・大通り公園に完成させ、由来文には「恒久平和実現の為(ため)の一里塚」と刻んだ。

◆意見広告で謝罪

 戦禍を原点に世界平和を希求した父が求めたのが和解だ。

 開戦50年の91年、米紙ニューヨーク・タイムズに意見広告を掲載した。ハワイ・真珠湾での式典出席を望んだが体調を崩してかなわず、代わりとした広告で奇襲攻撃を謝罪し、祈念碑建立に触れながら日米両国民の和解を願った。

 反響は大きく、海を越えて多くの手紙が届いた。

 米国の市民団体がその後、原爆投下に謝罪の意を示した同紙掲載の意見広告との見開きで、米スタンフォード大の教科書にも載った。戦火を交えても人は和解できる。その証左だった。

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