“中国三大悪女”の1人・西太后にまつわる残忍エピソード

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“中国三大悪女”の1人・西太后にまつわる残忍エピソード (C)週刊実話Web

呂后、武則天と並んで『中国三大悪女』に数えられる西太后。この三者に共通するのは、女帝もしくは実質的な時の権力者であったということ。やはり「玉座」というものは、何かしらの魔力を秘めているのかもしれない。
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西太后は、清王朝第9代・咸豊帝の妃となり後宮に入ったが、咸豊帝の長男を生み、同治帝として即位したことで絶大な権力を手に入れる。西太后は同治帝亡き後も政治の中枢から離れようとせず、権謀術数を用いて邪魔者を排除しながら、およそ50年にわたって権力を掌握した。

『中国三大悪女』に共通するのが、いわゆる「だるま女」の物語である。咸豊帝の寵愛を受けていた麗妃に激しく嫉妬した西太后は、咸豊帝が崩御するやいなや麗妃の身柄を拘束し、四肢を切断。酒を満たした瓶に漬けて殺したとされるが、この逸話は全くのフィクションで、実際の麗妃は皇女・栄安を生み、咸豊帝死後も後宮で静かに余生を送っている。

このエピソードはフェイクでも、西太后の恐怖政治がなかったわけではない。「だるま女」に信憑性を与えてしまう残酷さを、西太后は持ち合わせていた。

光緒帝の遺体から検出された致死量のヒ素

西太后は満州族の出身で、父親は清朝の地方官だった。14歳年上の兄がおり、妹と弟がいた。妹は、後に第11代・光諸帝の生母となる。17歳のときに紫禁城で行われた咸豊帝の后妃試験「選秀女」に合格。合格者10人中3番目の地位だったというから、その素養はもともと高いものがあった。

宮廷での立場をさらに躍進させたのが男子の出産だった。咸豊帝が31歳にして病死すると、西太后の産んだ皇子がわずか6歳で同治帝として即位し、彼女は皇太后となる。紫禁城の東の宮殿に住んでいた咸豊帝皇后に対し、彼女は西の宮殿に入ったことから西太后と呼ばれた。

実質的に表舞台に登場するのはここからだが、西太后はすでにこの段階で遺命を受けたと主張する大臣たちをクーデターにより追い落としている。新たな政治体制として、幼い皇帝を東太后と西太后が後見するという摂政政治(垂簾聴政)が始まったが、東太后は政治に興味がなく、実質的に西太后の治世であった。

ところが、同治帝は19歳で早世してしまう。西太后は権力を失うことをおそれ、わずか3歳でしかなかった自らの妹の子を光緒帝として即位させるが、当然のように実権は西太后が掌握し続けた。

成長した光緒帝は、日本をはじめ諸外国に蹂躙される祖国を憂えるようになる。そして、傀儡から脱却し、親政により国勢を回復させようと政治改革を断行したが、改革派の足並みが揃わず、改革派の一部に西太后暗殺の動きがあったとして、西太后はクーデターを起こし光緒帝を監禁する。

これにより改革は頓挫し、西太后の地位は全く揺るぐことはなかった。西太后は光緒帝を即座に廃立しようとしたが、列強が認めなかったため、光緒帝は傀儡であり続け、それから10年後に37歳で崩御する。

その死には当時から毒殺の噂が絶えなかったが、その後の調査では遺髪や衣服などから致死量をはるかに超えるヒ素が検出された。残留状況から毒殺されたことはほぼ間違いないと考えられている。ただし犯人についてはいくつかの説があり、真相は明らかにはなっていない。

ラストエンペラー溥儀が日本と結託した理由

西太后は光緒帝亡き後、後継者に指名していた溥儀を第12代・宣統帝として即位させる。この時、溥儀はわずか2歳10カ月で、再び同じ摂政政治が繰り返されると思われた。

しかし、西太后は光緒帝が崩御した翌日に74歳で死去する。ちなみに、光緒帝暗殺に関しては当然、西太后も容疑者のひとりだが、その動機は「光緒帝を自分よりも長生きさせないため」という納得しがたい論理である。

西太后亡き後、遺命の通り溥儀の父・醇親王が摂政となったが、わずか3年あまりで230年間続いた清朝は辛亥革命によって倒されてしまう。没落の道にあったとはいえ、ある意味では西太后の存在こそが、清という国を生きながらえさせてきたのだった。

嫉妬深さを伝えるエピソードは事欠かないが、その中には当然誇張や嘘が含まれる。それでも権力に対する並々ならぬ執着心は史実だけを見てもよく分かる。例えば、光緒帝に最も寵愛された妃・珍妃に対しては、義和団の乱の最中に幽閉していた紫禁城の冷宮から引きずり出し、井戸に投げ込んで殺害したといわれる。

珍妃は美しく聡明な人物だったとされ、光緒帝に親政を促したともいわれている。西太后は自らの地位を磐石とするために、珍妃を危険分子と見なし排除したと考えられているが、やはり詳細は不明な点が多い。

1928年、国民党の軍隊が清王朝歴代の皇帝が眠る河北省の清東陵を破壊し、副葬品として埋められていた金銀財宝を略奪するという事件が起きる。そこで徹底的に陵辱されたのが西太后の墓所だった。

この事件により溥儀は中華民国政府を深く恨み、日本と結託する道を選ぶことになる。