今も洗脳は続いている!幻の抑留者洗脳紙「日本新聞」を読み解く|早坂隆 シベリア抑留者に対して、共産主義思想を浸透させるために配布された「日本新聞」。第一級の史料である同紙の謎多き実態を明らかにすると同時に、その後の日本社会に波及した影響についても考察を加えていく。 日本新聞の「亡霊」は令和の時代になっても決して消えてはいない。

東條英機が死亡?

「日本新聞」創刊紙。抑留者に強烈な罪悪感を植え付ける紙面構成

1945年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、満洲国に侵攻。ソ連の侵略は南樺太などでも行われ、各地で民間人に対する殺戮や略奪、強姦などが相次いだ。

終戦後には、いわゆる「シベリア抑留」により、実に57万人以上とも言われる日本人が強制連行された。ソ連の行為は「武装解除した日本兵の家庭への復帰」を保証したポツダム宣言第9項に明確に違反する。強制連行された先はシベリアだけでなく、モンゴルや中央アジアなど、ユーラシア大陸の広域に及んだ。

そんな抑留者に対して、共産主義思想を浸透させるために配布されたのが「日本新聞」である。ソ連側は同紙を使って、抑留者たちへの赤化教育を推し進めようとした。

同紙は第一級の史料であるが、その内容に関する論考は極めて少ない。本稿ではその謎多き実態を明らかにしたうえで、その後の日本社会に波及した影響についても考察を加えていきたい。

第1号の発行は、1945年9月15日。終戦からわずか1カ月後のことである。「思想教育」は早期から計画的に実行に移された。 全文日本語の紙面は、タブロイド判で計4ページ。「日本新聞」という題字の下には、「新日本建設へ」との標語が付されている。

1面の大見出しは「同志スターリンの国民への呼びかけ 待ちに待った平和が遂に来た」。スターリンの肖像写真とともにある本文には、次のように記されている。

〈今次世界大戦の前夜には全世界のファシズムと全世界の侵略の二つの発源地が出来た。それは西にドイツであり、東に日本であるのである。この国こそ第二次世界戦争を勃発させたのだ。この国こそ人類とその文明を滅亡に瀕せしめたのである〉(引用部は新字体に改めたうえ、適宜、誤字脱字の修正、句読点の追加などを行った。以下、同)

まさに創刊紙の冒頭で、ソ連側の史観をはっきりと示したわけである。戦後の日本国内に蔓延した「日本悪玉史観」 「自虐史観」の土壌となる歴史認識と言える。同紙はこのような記事を通じて、抑留者たちにまず強烈な「罪悪感」を植え付けようとした。記事はこう続けられる。

〈日本の侵略者が損害を蒙らせた国は我々の同盟国─支那、アメリカ合衆国、大ブリテンばかりでなく、彼等は我国にも大損害を蒙らせたことを強調しなければならぬ。それだから我々も又日本に対して自分の特別な要求を有するのである〉

「悪いのは日本だから抑留も当然」とでも言いたいのであろうか。抑留者の怒りや不満が、ソ連ではなく日本に向かうべく誘導しようという意図が伝わってくる。

また、同号の4面には「前首相東條大将は自殺死亡す」と題された記事が掲載されている。

〈東條は自分で射った後二十分を経過して死亡した〉

言うまでもないが、これは明らかな誤報である。東條は9月11日に拳銃での自決を図ったが、未遂に終わっている。このような記事の掲載は、同紙が伝える内容の杜撰さと、当時の混乱ぶりを表していよう。 ただし、3日後の9月18日に発行された第2号のなかでは「東條の生命に別状なし」との訂正記事が掲載されている。

いかに洗脳させるか

「日本新聞」の編集局は、極東のハバロフスクにあった。編集長はイワン・イワノビッチ・コワレンコという人物である。ウラジオストク近郊に生まれたコワレンコは大学で日本語を学んだが、入隊後はその語学力を買われ、様々な対日工作に従事していた。そんな彼が26歳にして「日本新聞」の編集長を任されたのである。

編集部には約15名のロシア人スタッフと、約50名の日本人抑留者がいた。抑留者のなかには、元新聞記者も含まれていたという。 日本側の初代編集責任者として選ばれたのは宗像創であった。東京帝国大学工学部卒業の宗像は、ソ連側が称するところの「民主運動」のリーダー格となった。

発行は週3回。発行部数は約20万部とされる。ページ数は概ね2ページか4ページ。同紙には編集部の他に宣伝部隊があり、彼らは各地の収容所を回って記事の内容をわかりやすく解説する役目を担った。

10月11日発行の第12号の特集は「ソ連とは?」。「世界一の大国」 「面積は陸地の六分の一」 「莫大な天然資源」といった言葉を使って「ソ連がいかにすばらしい強国か」を伝える内容となっている。以降の号でも、「偉大なるかなソ連!」(第13号)、「飛躍目覚ましコルホーズ農場 農機続々送らる」(同)、「人間による人間の搾取を全廃し 総ての権力は労働者と農民の手に」(第14号)、「生活の絶対的保証」(同)、「議員は国民の公僕 明るいソ連の姿」(第16号)といった見出しの記事が続く。「罪悪感」を植え付けたあとに「理想の描写」をするのは、洗脳における古典的手法の一つである。

しかし、言うまでもなく、21世紀を生きる私たちは、すでに歴史の解答を十分すぎるほど有している。ソ連がどれだけの国民を犠牲にし、社会を崩壊させたか。その答えを知っている私たちには、いずれも虚しく響くスローガンである。だが、そんな解答を持ち合わせていない当時の抑留者たちのなかには、同紙が綴るスローガンにある種の「希望」を感じた者もたしかにいた。

そんな抑留者たちの心をさらに赤化していくため、同紙はソ連礼賛記事と同時に、「日本批判」の内容をより強調していく。「日本財閥の仮面を剥ぐ」(第21号)、「戦争に対する責任は軍閥と財閥にあり」(同)、「軍閥の罪や深し」(第22号)といった記事を通じて、「君たちは騙されていた」という観点を繰り返し提示していくのである。「怒り」の感情を巧みに利用するのも、洗脳教育の基本である。

11月17日発行の第27号には「日本共産党活動方針決定」との見出しのもと、以下のように記されている。

〈日本共産党がソ連より資金を得て暴力革命を図っているとの噂は全然事実無根である。(略)青年の共産主義に関しては速かに広汎な大衆組織になすべきである〉

同号には「日本社会党結成」という記事も掲載されている。同紙はその後も、両党の動向を積極的に伝えている。これは洗脳の初期段階で示された「理想」を実現するための「具体的手法」を提示するという次の段階である。「日本を理想的な社会にするためには、日本共産党や日本社会党を支持するしかない」と説いているわけである。

12月13日発行の第38号には、一枚の「風刺画」が掲載されている。瓦礫の山と化した街を背景に、東條英機ら軍人が日本国民に頭を下げているという構図のイラストである。タイトルとして「彼等こそ戦争と惨禍の責任者だ」と冠され、以下のような台詞が続く。

〈国民「この様な姿になったのは誰のためだ」 東條「ハイ軍人が政界に登場─東條─したのがこの不出来─英機─でした。申訳ありません」〉

「笑い」としても低調な「抑留ジョーク」だが、その実態は風刺というよりも洗脳教育そのものである。 シベリアの酷寒は、抑留者たちの心身を疲弊させた。食糧も足りず、強制労働には厳しいノルマが課せられた。病気や栄養失調により亡くなる者が相次いだ。そんな生活のなかでも、日本人は活字に飢えていた。しかし、彼らが手にすることができる紙媒体は「日本新聞」だけであった。発行当初は見向きもされないことも多かった同紙だが、次第に愛読者は増えていった。そしてついには「日本新聞友の会」が結成されるにまで至ったのである。

特集「天皇制問題」

1946年1月1日に昭和天皇のいわゆる「人間宣言」が行われたことを受けて、1月17日発行の第53号では「天皇制問題」と題された特集が組まれている。見出しには「『天皇』の語は不当」とあり、本文は以下のように続けられる。

〈天皇教という宗教ができたについて一つの挿話がある。明治初年、東京大学で国史を講じていたアストンは「明治政府が一つの新しい宗教を創って之を普及し始めた。新宗教とは天皇崇拝の宗教である」と言っている。天皇という言葉も神という意味を含めた日本の造語であって支那にもなければ日本にも古くは余り使われていない〉

日本の皇室の歴史を「近年に始まった新宗教」と断ずる内容である。戦前に「コミンテルン日本支部」として発足した日本共産党は、「君主制廃止」や「絶対主義的天皇制の打倒」などを掲げてきた党史を持つが、「人間宣言」以降も皇室への批判を弱めることはなかった。

3月3日発行の第72号のトップ記事は「日本共産党四大決議」を伝える内容である。第5回大会を通じて決議されたというその「第一」には、こう記されている。

〈選挙を前にして天皇の行幸が頻りにある。神奈川、東京、多摩などへの戦災地視察が相次いで行われ、直接人民に呼び掛けている。天皇は依然最高戦争犯罪人であるにも拘わらず、自己の罪を棚に上げ、之を偽装しようとして盛んに人民に呼び掛けている〉

昭和天皇の巡幸は、同年2月19日の神奈川県を皮切りに始められたが、「日本新聞」はこれにすかさず批判を加えたことになる。結局、この巡幸は日本各地で国民に熱狂的に迎え入れられたが、共産主義者たちは一貫して批判的な姿勢を崩さなかった。

5月3日からは東京において「極東国際軍事裁判」(東京裁判)が始まったが、同月9日発行の第101号には次のような記事が掲載されている。

〈日本並に全世界の勤労大衆を現在の如き惨憺たる廃墟に導いた帝国主義的強盗戦争の指導者、組織者であり、且つ巨大地主及独占財閥の専制支配のために、未曾有の軍事的日本ファシズムの恐怖政治を施いた張本人、東條英機以下二十八名の所謂第一級戦争犯罪人に関する公判〉

「強盗戦争」 「恐怖政治」といった言葉は、そのままソ連にお返ししたい。

過激さを増す紙面

1946年の後半以降は「天皇批判」の記事がさらに過激さを増してくる。10月10日発行の第167号には「天皇制こそわれらの敵」 「天皇制打倒はわれわれの信念」とある。

12月28日発行の第200号には、宮本顕治の論文「天皇制批判について」が1ページすべてを使って紹介されている。宮本と言えば、戦前から日本共産党の党員として活動し、戦後は同党の書記長や委員長を歴任した人物であるが、その彼の論文の一部が「200号記念」として転載されているのである。宮本は「天皇制を打倒しなければならないことは明白である」としたうえで、日本における国民と皇室の存在を「奴隷と奴隷所有者」 「被征服民と征服者」になぞらえる。同記事の掲載後、収容所内ではこの論文を題材とした研究会などが催されていった。

そんな思想教育は、着実に効果をあげた。年が明けた1947年の1月16日発行の第207号には、抑留者から投稿されたという以下のような詩が掲載されている。

〈若きソ連の兵士らが 奏でる楽の旋律よ 語らう笑顔の明るさよ 自由と平和と友愛が滲み出るこの力 正しい戦に勝った 正義の軍隊の姿だ 落日に涙たれつつ 新たなる怒りにもえて 俺は叫ぶ!! 打倒せよ!! 軍閥日本 打倒せよ!! 天皇制日本〉

さらに、7月3日発行の第279号の投稿欄「われらの詩藻」には、「狂歌」として以下のような一首が掲載されている。

〈天下り人となりたるヒロヒトに 鋤鍬持たせ 赤旗の下〉

北朝鮮の誕生を大々的に祝す

1948年2月5日発行の第373号には、中国の毛沢東に関する特集が組まれている。当時、中国は第二次国共内戦下にあり、共産党軍が形勢を優位に進めている状況であった。毛沢東の写真とともに「中国解放の旗すすむ」 「勝利の日いまぞ近づけり」 「共産党の指導の下に 民族統一戦線は強化」といった言葉が並ぶ。同紙ではその後も、中国共産党を礼賛する記事が頻繁に掲載されていく。

5月1日発行の第412号からは、題字が「日本新聞」から「日本しんぶん」に変更された。ただし、紙面の路線に大きな変化は見られない。

9月18日発行の第472号の1面トップは「朝鮮民主人民共和国成立」の大見出し。同月9日に建国された北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の誕生を大々的に祝す内容である。1面には金日成の肖像画が掲載され、2面には以下のような記事が綴られている。

〈朝鮮を二分するにいたったアメリカ帝国主義者とその手先たる朝鮮反動に抗する闘争の途に断乎たちあがったのである〉 〈すでに根本的な民主的諸改革が実施され、言論、出版、集会、結社の自由が存する北鮮〉

北朝鮮のその後の歩みを知る私たちには、歴史の冷酷さを物語る記事にも映る。

1949年1月1日には、第517号が発行。「レーニン・スターリンの旗の下に 勝利を確信し躍進せよ!」 「"われらのスターリンのために"誓いをこめて勝利の祝杯を!」といった見出しが並んでいる。

3月26日発行の第553号には「売国奴ヨシダ打倒人民大会」との見出しで、当時の吉田茂内閣を打倒するためのデモが東京で行われた旨を伝えている。「ヨシダ即時退陣を決議」「国会取りまくデモ」などと記されているが、首相をカタカナで表記する手法は、近年でも見覚えがあるであろう。安倍晋三前首相のことを「アベ」と表し、国会前でデモを繰り返していた人々がいたことはいまだ記憶に新しい。前章の引用部のなかにも昭和天皇を「ヒロヒト」と表していたものがあったが、この「カタカナ表記」というのは極左勢力の伝統芸と言える。

731部隊にも言及

最終号は1949年12月30日に発行された第662号。その内容は同月25日から始まった「ハバロフスク裁判」の内容を伝えるものであった。同裁判は旧日本軍に対する軍事裁判で、日本の対ソ攻撃や731部隊のことなどに関する法廷である。結局、被告人たちはいずれも有期刑の判決を受けることになるが、同紙面には「正義の法廷開かる」「凶悪なる人類の敵ども」といった見出しのもと、こう記されている。

〈凶悪な殺人鬼の徒党たる日本支配層および軍閥一味は、細菌武器によって、中国、朝鮮、ソ同盟の無この平和な住民を幾百万となく殺戮せんと準備したのである〉

〈第七三一部隊その他において、彼らは犯罪的人体実験を実施し、日本諜報機関の血まみれの手に捕えられたロシア人、朝鮮人、中国人、蒙古人愛国者三千名以上をかかる手段によってもん死せしめた〉

731部隊とは、大東亜戦争下に存在した日本の研究機関の一つで、正式名称は「関東軍防疫給水部本部」という。彼らの主要な任務は、兵士の感染症予防や、衛生的な給水体制の確立を研究することであり、ノモンハン事件の際には的確な給水支援や衛生指導により、多くの人命を救った。ただし、これらの任務と並行して、細菌戦などを意識した生物兵器に関する研究を進めていたのは事実である。だが、ソ連側が一方的に主張する「三千名以上もの殺害」を裏付ける歴史的証拠などは、いまだ示されていない。

いまに続く日本新聞の亡霊

以上、「日本新聞」のなかから、特に印象的な紙面をいくつか紹介した。

多くの抑留者は共産主義の欺瞞を見抜き、あるいは肌で感じ、ソ連側の洗脳教育に感化されることはなかった。また、「早く帰国するため」に共産主義に染まったフリをした者たちもいた。「抑留者=共産主義者」でないことは重ねて留意しておきたい。

しかし、「日本新聞」を教材として行われた苛烈な思想教育のなかで、共産主義に心酔してしまった者たちも少なくなかった。引き揚げ時、抑留者たちの乗った船の多くは舞鶴港に到着したが、彼らのなかに、 「天皇島上陸!」などと叫んだ者たちがいたことは、出迎えの人々を驚かせた。このような光景を生んだ背景には「日本新聞」があったのである。

そして、そんな抑留者たちの存在は、戦後の日本社会にまで影響を及ぼすことになった。 「日本新聞」の日本側初代編集責任者だった宗像創は、1949年の秋に帰国したが、その後、日本共産党に入党。同党の機関紙「赤旗」の編集に従事した。

無論、抑留者の引き揚げとともに「日本新聞」は廃刊となった。しかし、驚嘆すべきは、令和の時代になっても「日本新聞」のごとき主張を繰り返す人々がいまだに存在するということである。「日本新聞」の発行元であったソ連も崩壊してすでに久しいが、その「亡霊」はいまも消えていない。「日本新聞」の末裔のごときメディアや政治家、学者、評論家らは、いまも各方面に巣食ったまま一定の力を有している。彼らがその哀しき洗脳から解かれる日は来ないのであろうか。(初出:月刊『Hanada』2021年5月号)

早坂隆

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