【加藤伸一連載コラム】甲子園強豪校の倉吉北にプロ入りした憧れの先輩が!

倉吉北高入学時に自宅で記念撮影

【酷道89号~山あり谷ありの野球路~(4)】中学卒業後の進路に地元の倉吉北高校を選んだのには、いくつか理由がありました。一つは母にこれ以上、迷惑をかけたくないという思いです。前回も書いたように4歳上の兄は大学に進学しており、金銭的な負担は少ない方がいい。その点、倉吉北からは入学金と授業料の免除という“条件提示”があり、それも決め手の一つではありました。

母は理容師として一人で「加藤理髪店」を切り盛りし、仕事を終えて帰ってくるのは会社員の父より遅くなることもしばしば。一日中の立ち仕事で、しかも当時はバリカンまで手動だったことから慢性的なヒジ痛も抱えていました。

それでも文句一つ言うことなく、料理を作ったり、1着しかない僕のユニホームを洗ってアイロンがけ…。まるでスラックスのように、綿製のユニホームのズボンに折り目を付けられるのだけは嫌でしたが、なかなかできることではないでしょう。ついでに言うと、僕は1984年にプロ入りするまで、母以外に髪を触らせたことがありません。

倉吉北が甲子園の常連校だったことも大きな魅力でした。75年の選抜で初出場を果たし、78年夏の1回戦で早実相手に初勝利。79年春にベスト8入りすると、80年は春夏連続出場を成し遂げ、3季連続出場となった81年春には鳴門商、中京商、高松商を下してベスト4にまで進出しました。79年春に4強入りを阻んだ相手が優勝する箕島で、81年春に決勝進出の夢を打ち砕いたのが、これまた優勝校のPL学園だったことを考えれば、もはや甲子園常連校どころか強豪校です。

兄と同い年で憧れの先輩だった矢田万寿男さんの存在も見逃せません。一塁手として78年夏の甲子園初勝利に貢献し、79年春にはエースとしてベスト8進出の原動力となった方で浪商の牛島和彦さん、広島・府中東の片岡光宏さんとともに“スピード三羽烏”として全国に名前をとどろかせていました。

矢田さんは79年のドラフト会議で阪急から4位指名されてプロ入り。それまではぼんやりと「行けたらいいな」ぐらいに思っていたプロの世界に“つながる道”を僕に示してくれた方でもあります。

現在でも高校の硬式野球部が全国で最も少ない鳥取県は、僕が入学した81年時点で21校でした。夏の大会なら多くても5回勝てば甲子園に出られます。その事実は県外の学生にとっても大きな魅力で、倉吉北には主に大阪や兵庫などの関西圏から多くの生徒が集まっていました。それが数々の悲劇を生み出す要因にもなっていったのです。

☆かとう・しんいち 1965年7月19日生まれ。鳥取県出身。不祥事の絶えなかった倉吉北高から84年にドラフト1位で南海入団。1年目に先発と救援で5勝し、2年目は9勝で球宴出場も。ダイエー初年度の89年に自己最多12勝。ヒジや肩の故障に悩まされ、95年オフに戦力外となり広島移籍。96年は9勝でカムバック賞。8勝した98年オフに若返りのチーム方針で2度目の自由契約に。99年からオリックスでプレーし、2001年オフにFAで近鉄へ。04年限りで現役引退。ソフトバンクの一、二軍投手コーチやフロント業務を経て現在は社会人・九州三菱自動車で投手コーチ。本紙評論家。通算成績は350試合で92勝106敗12セーブ。

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