沖縄は解放されたか 革命運動に身投じた2人の夢 本土復帰49年の日に

By 江刺昭子

仲宗根貞代(左)と源和(1921年頃)

 今年5月15日は沖縄が本土に復帰して49年、来年は半世紀の節目となる。その日が来ると、思い出す人がいる。沖縄出身の社会運動家、仲宗根源和(なかそね・げんわ)と妻の貞代(さだよ)である。琉球処分に始まる明治政府の収奪によって貧困に苦しむ沖縄の解放をめざして上京し、革命運動に身を投じた2人の夢の跡をたどってみたい。(女性史研究者=江刺昭子)

 仲宗根源和は1895年、沖縄本島北部の本部町(もとぶちょう)に生まれた。地域は貧しく、小学校も出ない少女たちが遊郭に売られていく。

 言語学者であり歴史学者でもある伊波普猷(いは・ふゆう)や比嘉春潮(ひが・しゅんちょう)の影響を受け、小学校教師をしながら沖縄解放への思いを強めていく。

 折しも1917年のロシア革命に続いて日本でも18年、米騒動が起きる。明治の大逆事件で逼塞(ひっそく)していた社会主義運動が息を吹き返し、その波動は沖縄にも伝わる。

 源和は貧しさからの解放を社会主義に求めた。ロシア語を勉強し、ソ連に渡って革命の実際を学び、日本の革命を実現する。そうすることによって沖縄を解放することを夢見て、1919年に上京する。

 源和の思想に同調してともに上京した妻の貞代は、彼と同い年。熊本県生まれだが父の仕事の関係で沖縄に移住した。

 本が好きで図書館に出入りするうち、女子学生たちに読書指導をしていた伊波普猷の自由主義的な考え方にひかれる。やがて小学校の教師になり、源和と出会って結婚した。

 上京した2人は社会主義者の堺利彦(さかい・としひこ)の元に出入りし、機略と行動力に富んだ源和は堺の懐刀と言われるような革命家になっていく。

 当時の社会主義者に対する政府の弾圧は厳しかった。源和は21年、日本社会主義同盟の第2回大会の壇上で「革命」と大書した旗を振って検束される。さらに軍隊に向けて反戦を呼びかけるビラを配った「暁民共産党事件」で逮捕され、身辺は常に警察の監視下におかれた。

 当時、女性は政党に入れなかったため、貞代は日本社会主義同盟の事実上の婦人部として21年に結成された赤瀾会(せきらんかい)に加入。第2回メーデーの街頭デモに参加して解散地の上野公園で検束されている。

赤瀾会員。左端が堺真柄、右端が仲宗根貞代(1921年)

 留置された上野署で警察官に「おまえらは子の守りくらいでちょうどよい。そしてきれいな着物を着ておられるのにそのザマはなんだ」とののしられ、「そのザマは何だと威張るけれど、資本家の飼い犬になっていながら、何の自覚もなく、偉そうにそり返っているそのザマは何だ」と言い返したと伝えられる。

 メーデーのデモに参加したくらいで警察に捕まる。そんな行き過ぎた弾圧が、かえって反権力の意思を強固にしてしまうのはよくある例で、貞代も屈指の活動家になる。

警察官に拘束されトラックに乗せられたメーデー参加者たち。左の女性が堺真柄=1932年5月1日(日本電報通信社撮影)

 1922年に結成された非合法の日本共産党に、女性では貞代と山川菊栄、堺真柄(まがら、利彦の娘)が参加していたと伝えられるが、23年に発覚して堺利彦や源和らが逮捕されたとき、女性3人は逮捕を免れている。関係者が秘密を守ったからだろう。

 23年3月8日の第1回国際女性デーの弁士にも予定されていたが、警察によって途中で集会が中止させられた。

 前述した「暁民共産党事件」では、夫の源和や堺真柄らとともに逮捕され、禁錮4カ月の刑を受けている。23年9月1日の関東大震災のときはこの刑の執行中で、源和も貞代も獄中で激しい揺れに耐えた。

 その後、夫妻で再建共産党の合法機関紙「無産者新聞」の発行を手伝うなどしていたが、源和が共産党弾圧事件で獄につながれ、27年に出獄した後、夫妻とも運動から離脱した。

 源和は後の取材に、離脱の理由を、運動体の内部抗争に嫌気がさし「沖縄解放の希望を託した日本革命に期待がもてなくなったためだ」と答えている。

 貞代の方は半世紀過ぎた79年、訪ねて行ったわたしの問いに「何も皇室をなくそうとして社会主義者になったのではありませんから」と話した。当時の共産党が綱領に「君主制の廃止」を掲げたことを指すとみられるが、その頃のことはあまり語りたがらなかったから、真意は分からない。

 夫妻は心機一転、出版社を興して『大南洋評論』、『鏡』などの雑誌を発行し、編集実務は貞代が受け持った。だが、運動を離れた気の緩みからか、源和が出入りしていた待合(会合などのための貸席業)の女将(おかみ)と親しくなったことから離婚に至る。

 離別前後の貞代の行動について「それはそれは見事な引きっぷりでした」と、当時を知る人たちは証言する。父母すでになく、年齢の離れた弟を養っていた貞代は、運動の関係者や沖縄の知人たちの前から姿を消した。

 そして神戸で3年、住み込みで働き、ためた金を持って東京に戻り、大泉学園町に土地を買って弟とともに養鶏所を始めた。一時は2千羽以上の鶏やウズラを買うほど繁盛したという。

 しかし、同じ東京に住みながら、親しかった堺真柄との音信も断ち、手紙の類いは一切書かず、外で文字を書く必要があっても居合わせた人に代筆してもらう徹底ぶりだった。熊本の老人ホームで堺真柄と感激の再会を果たすのは50年後のことである。

 一方、源和は39年頃、沖縄に戻り、42年、沖縄で県会議員になって政界に進出した。戦後は沖縄の女性参政権の成立に関与し、沖縄独立論を唱えるようになる。

埋め立てが進む沖縄県名護市辺野古の沿岸部=2020年12月

 日本の革命から沖縄解放への夢は、2人を一時期、同志として結びつけた。49年前、沖縄は本土に復帰して米軍統治からは脱したが、今も基地が広大な土地を占有し、昼夜を問わず戦闘機の爆音が響く。2人の夢が実現したとは、到底いえない。

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