<南風>大学時代

 国体3位の成績が決めてとなり僕は明治大学へ進学することになった。大学でハンドボールをしている先輩が近くにあまりいないので一度は大学を断ろうとした。しかし両親から6大学の誘いなんて断ったらバチが当たるぞ。入りたくても入れない人もたくさんいるんだからと。今までは好きにしろという方針だった親から思いがけない言葉を聞きビックリした。

 大学のハンドボールは今までのように毎日怒られてやるハンドボールではなく、自主的に考え、筋トレもしないといけないスタイルで初めは戸惑いもあった。同級生にも先輩にも恵まれたが、どうしても寮生活があわず入学前に寮を辞めて、そこから4年間は山梨から大学に通うことにした。特急は使わず、朝6時30分に家を出て、練習が終わって家に着くのは午後11時。毎日電車に6時間乗っていたのは驚きしかない。授業の方は、語学は難しかったが毎日休むことなく通ったおかげで専門科目などはそれなりにできたので3年間で単位を取り終えた。

 部活の方は僕らの1つ上の代から強化をしていて僕は1年の夏あたりから使ってもらえるようになった。自分で考えてやるハンドボールはとても難しかったが、先輩に考え方、攻め方、守り方の根元を教わってやっとチームにもフィットしてきた。そしてこの年は何十年ぶりのインカレ出場を成し遂げた。2年の時にも何十年ぶりの1部昇格を果たし、3年のインカレでも何十年ぶりのインカレベスト8にもなった。

 自分たちの代でも何か華々しい結果を残したかったが、無難に1部残留、無難にインカレ出場と平凡な結果で終わってしまった。大学引退してから日本リーグでプレーすることも勧められた。少し考えたが、こんな成績ではとても通用しないと思い働きながら地元のクラブでやることを決めた。

(水野裕矢、琉球コラソン代表取締役CEO)

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