育成、スカウト、カープ女子…広島の基礎を作った野崎泰一

第69回選抜高校野球でスコアをつける広島・野崎泰一

【越智正典 ネット裏】昭和34年、広島カープ入団の三塁手、興津達雄は野崎泰一を尊敬している。

「いまの広島の基礎を作ったのは野崎さんです。選手を探しに九州、四国の山奥へ行ったんです。貧乏カープでカネがなくてタクシーに乗れません。テクテク歩いて、毎年1年間に11足も靴を履き潰したんですよ…」

そう言う興津。静岡県焼津出身。静岡商業、専修大学、広島で4番。本紙評論家だった青田昇が「興津のバッティング練習を見とると、革の匂いがしてくるんだ。しっかり叩いとる」。

ユニホームを脱いでから東京、杉並区高円寺で水道工事会社を経営。西武の根本陸夫が次期監督に欲しがった。興津はお得意さんや下請けさん…に迷惑がかかると、行かなかった。いい男である。広島のオーナー、松田恒次の墓参を欠かしたことがない。平成元年、球団創立40周年の記念式典に招かれ、帰ってくると、仲間が囲んだ。
「放送局にインタビューされちゃってね。いらないというのに、出演料を出すんだ。あの放送局、大丈夫かな」。仲間は笑った。

「その放送局、昔の貧乏カープじゃない!」

野崎泰一――。もちろん見事な男である。選手スカウトの旅から帰ってくると何事もなかったように、イキなソフト帽をナナメにかぶってスイと街を歩いていた。35年、キャンプイン前に、専修大学から入団の新人投手、山本兵吾がピッチングを教えて下さい…と訪ねてくると「バッターが打てん球を投げんかい!」。これがユーモラスに聞こえるのは人柄ゆえである。

大正12年生まれ。呉港中学、専修大学、昭和18年卒業。戦後プロ野球再開の21年、阪神。阪神で5年間働いた。登板、計169試合で敬遠は一度もない。ボークもゼロ。キャッチャーから返球を受けると颯!と投げ込む早投げの人気投手だった。26年、東急。27年、故郷広島に帰って来て2年間投げた。

私が戦後、初めて広島を訪れたのは昭和26年夏である。市電の停留所には小鳥の巣箱のようなカープ救援募金箱。市電は13円。15円を出してお釣りをもらったお客さんが“巣箱”へポトリ。

広島は25、26年最下位。監督石本秀一は勝負どころではなかった。財政ピンチ。広島商業、関西大学、打倒巨人のタイガースの猛将。12、13年と優勝した石本は、打開に東奔西走。後援会を作って呼びかける(47年殿堂入り)。その苦難時代もそろそろ終わろうとしていた。新しい時代が待たれた。野崎が帰郷した27年2月22日、広島市民球場の起工式。6月13日、新球場の入場料が決まった。外野席大人100円、こども50円。7月24日初ナイター。外野席に進軍ラッパが鳴った。

野崎が育成球団への道を歩き出す。カープの前途は二軍。29~33年、二軍監督。テクテク、スカウトになるのは興津が入団した年からである。

のちのことになるが、西野襄球団代表と相談してウエスタン・リーグの試合開始時間を規定の午後1時から正午に改める。広島市民球場の近くで働くOLたちがスタンドでお弁当をひろげる。カープ女子のルーツである。現スカウト統括部長苑田聡彦が野崎の志を継いでいる。 =敬称略=

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