「棒の重さ」を考える #それでも女をやっていく

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会社員、フリーライターであり、同人ユニット「劇団雌猫」として活動するひらりささんが、「女」について考えるこの連載。
今回は、フェミニズムについて学ぶ中で感じたことについて綴っていただきました。


中学の頃、物理の成績だけ悪かった。苦手だったのが、てこの原理の問題だ。「おもり×支点までの距離」の計算式を組み合わせて解を導く流れ自体は難しくなかったが、わたしを悩ませたのが、必ず添えてあった「注意書き」だった。「ただし、棒の重さは考えないものとします」。どう見ても棒あるし重さあるじゃん、と思うと注意力が削がれ、どこかでミスをした。

ここ1〜2年フェミニズムの勉強を真面目にするようになってから、この注意書きをよく思い出す。

(写真:筆者撮影)

20代半ばまで、フェミニズムについてほとんど知らなかった。母親が離婚後就職に苦労するのを見て「結婚しても仕事はやめないぞ」と思っていたけれど、家父長制への疑いはなかった。通っていた中高一貫女子校は女性の権利についての教育に余念がなく、「選挙には絶対行け」とどやされたが、フェミニズムの歴史を教わった記憶はない。大学の一般教養でジェンダー論をとったので、どこかで関心は芽生えていたはずだ。しかし残念なことに成績があまり振るわず、それ以上ジェンダー関連の講義を取らなくなった。今にして思えば、本当に愚かなことだ。

抑圧の連鎖を断ち切るために

以前、大学の同級生男子から上から目線の容姿ジャッジをされた時に、怒ることができなかった話を書いた。あの時フェミニズムをちゃんと学んでいたら、違う振る舞いができたのかなあ、とは頭をよぎる。その思いは、社会に出た後20代の頃の自分に起きたことにも当てはまる。上司から怒られている時に「おじさんを転がせると思ったから未経験でも採用したのに、本当に役立たずでがっかり」と罵倒されても、自分は仕事ができないのだから当然の扱いを受けているのだと諦めていた。

仕事で成果を出せるようになったらハラスメントを受けることが徐々に減ったのも、むしろその認識を強めてしまったかもしれない。「私が受けてきた扱い、さすがにおかしかったな」とは思ったけれど、告発や抵抗の気力はなかった。学べることを学びきったという前向きな理由が得られた時にその場を去ることが、すり減らされた自分の心身を守る精一杯だった。

やめた後、同僚たちから「さすがに彼もあなたがやめた時に反省して、自分の態度を見直している」と教えられた。その上司、その職場には学べることがたくさんあったのは事実で、彼ら彼女らはその後も長く働いていた。

わたしは、生き残ったわたしをいたわるべきなのだろう。それでも心身のどこかに、じくじくとした膿みが居座っている。あの上司からそういう扱いを受けた女がわたし一人で済んでいるのは単なる幸運で、わたしがそれを糾さなかったことが、年若いどこかの誰かに、被害を引き継がせた未来がありえたからだ。わたし本人以上に、状況を理解しつつも強く言えなかった周囲と、上司自身に重い責任があるのは大前提としても、である。

そこからさらに歳をとり、より下の世代に引き継がれる苦しみは、わたし自身の経験を越えてもっと広く存在していることに気づいた。半径3メートル以内での死闘がひと段落したからやっと、この世の女性たちの周りに張り巡らされている無数の罠に、ようやく目を向けられるようになった。ずっと早くに気づいていた人々もいるだろう。しかし、30歳前後でやっと見えたものがある人は、わたしだけではないとも思う。

自分が内面化しているものと闘いつつ、自分より年若い誰かのために何かをしたいという焦燥が、わたしたちをフェミニズムに向かわせている。フェミニズムは一人一派と言われるけれど、抑圧の連鎖を断ち切りたい気持ちはかなり多くの人に共通するのではないかと、最近は思うようになってきた。祖母、母、娘の3代の人生を綴った韓国の小説『82年生まれ、キム・ジヨン』(筑摩書房)が大ヒットしたのも、そのメッセージが強く込められていたからだろう。

「タクシーで帰ってほしい」と言われて

このようにわたしは、「女」の身体を持つ人に限らず、「女」に伴う思い込みや振る舞いを押し付けられたゆえに、生活の中で傷ついてきた人々に対しては、考え方ややり方は違っても、何かしらでつながれている感覚を抱いている。まだどうしてもうまくつながりを感じられないのは、そうでない相手――つまり「男」で、フェミニズムの立場に立っている人だ。慎重に絞って言うと、男性特権や加害者性に対しての罪悪感・贖罪意識で女性に向き合っている男性に、かえって言いようのない溝を感じることがある。

一例を話してみる。コロナ禍の始まる少し前、とある男性と飲んだ時のことだ。

十数名の業界交流会で知り合ったその人と、わたしはもう少し話したいなと思って、二人での飲みに誘った。彼は出版社で営業をしているが、いつか編集部に配属になったら、フェミニズムに関わる本を出したいのだと言っていた。もっとその話を聞きたかったのと、LINEをしている中でも興味のあるコンテンツがいくつもかぶっていて、友人として気が合いそうだと思った。平日の夜、彼がよく行くという新宿三丁目のスペインバルで落ち合った。

飲んでいる間は楽しかった。フェミニズムの文献をいろいろ教えてもらったし、映画や漫画の話などもたくさんした。時間はあっという間に過ぎ去ったのだが、飲み屋を何軒か梯子した深夜2時、彼がゴールデン街の馴染みの店に足をのばすと言い、わたしは帰ることにした。わたしの家は当時、新宿三丁目からそう遠くなかった。「歩いて帰ります」と言った時、衝突が起きた。彼に強い口調で止められたのだ。

「危ないから、タクシーで帰ってほしい」

たしかに深夜2時の夜道は安全とは言えない。西新宿や代々木などもう少し遠くで飲んでいたら、歩けない距離ではないものの、素直にタクシーに乗ったと思う。ただ、飲んでいた場所から自宅は、本当に徒歩十数分ほどなのだ。大きな通り沿いを歩いて帰れるし、歓楽街しか通らないから、むしろ人の目もある。新宿の映画館でレイトショーを観た後も、何度も徒歩で帰宅していた。

「いや、これくらいの時間によく帰ってるし、大丈夫ですよ〜」と半笑いでいなしてみたのだが、彼は引かない。わたしのことを心配しているのはわかるが、ちょっと過剰ではないか。こちらが怪訝な面持ちになったのに対し、彼は苦しみに耐えるような表情で、続けてきた。

「自分と別れた後、東京の夜道でレイプされたことがある女友達がいて。僕と解散した後にあなたがそういう目にあったら耐えられないので、本当にタクシーで帰ってほしい」

有無を言わせぬ雰囲気に、わたしは笑顔を引っ込めた。わたしはわたしの人生の中で自分なりに自分の安全を見積り行動しているつもりだが、彼の経験からすると、どうやら不十分なようだ。理由は理解したし、わたしが折れて数百円のタクシー代を払えば円満に解決するのは明らかだったが、それでもわたしの行動を制限されることには、違和感があった。「レイプ」という言葉を彼は切実な根拠を示すために挙げたのだろうが、そのときのわたしには一種の脅しを受けたようにも感じられた。それでもその瞬間は、彼を合理的に説得する言葉が浮かばなかった。うーん、どうしよう。しばらく沈黙したあと、わたしは伝えた。

「わかりました、タクシーで帰ります。家の方面あっちなので、あの通りで捕まえますね」

こうしてわたしは、彼には見えない死角でタクシーを拾うフリをして、そのままこっそり歩いて帰ったのだった。

「個人」として無視されたくない

これを読んだ人は、わたしのことを、他人の気持ちをむげにする大馬鹿者だと考えるかもしれない。たしかに、彼は本気で誠実に、わたしを心配してくれたとは思う。女友達の話を明かされたとき、わたし自身も非常に痛ましく感じた。その晩も、それまでの晩も、わたしが無事に自宅に帰り着いたのは、単に幸運なことで、あと何度か夜道を歩いて帰るのを繰り返した時に、わたしが危ない目にあう日もやってくるかもしれないと、わたしも知っている。スカウトの男性から不快なキャットコールを受けることはある。本当はそういう目にもあいたくないし、それ以外の目にももちろんあいたくない。

それでも、だ。わたしが極力危ない目にあいたくないことと、わたしがどう振る舞うかはわたしが決めたいことは、同じくらい大事だと思う。夜道の徒歩とタクシーだとわかりにくいかもしれないが、これが、ミニスカートを履くか履かないかだったらどうだろう? 「ミニスカートを履いていた女友達がレイプされたことがあるんだ。危ないから、ミニスカートを履かずに街に出てくれ」と言われた時に、女性はその嘆願を尊重すべきだろうか? わたしはそう思わない。

わたしと同じ状況で、別の行動や考えをとる女性はたくさんいるだろう。わたしがとった行動や考えが、誰にとっても正しいものだとも思っていない。しかし、わたしが今回本当にしたいのは、その正しさの検討ではない。

つまり、彼のようなタイプの男性――男性の加害者性に対して責任を強く感じ、女性を被害から救う論理としてフェミニズムにたどりついた人が、その反面、目の前のすべての女性に対して「いつでもか弱い被害者」という眼差しを向け、相手個人を、ひどく無視してしまうこともあるのではないかということだ。

よく考えたら、飲み会でフェミニズムに関わる話をしている間も、彼の言葉は、自分の罪悪感の吐露が中心だった。本当はわたしは、しゃべっている間は楽しくあろうと努めていただけで、うっすら居心地が悪かったのではないか? わたしは自分で自分を守りたいし、自分の意思で何かを選びとることのできる存在として、わたしを見てくれない人と話したくはない。

難しいのは、彼は彼で、傷ついてきたのだろうとは窺い知れることだ。その点でわたしたちには似たところもある。わたしだって、自分の傷つきをきっかけに、フェミニズムに興味を持ったからだ。彼が自分なりのイデオロギーで実践・発信したことに、救われた人たちもきっといると思う。だとしても、わたしが「潜在的被害者」として彼の気持ちをありがたく受け取らねばならないというのはやっぱり違うだろう。

無視できない「棒の重さ」

一方でわたしもきっと、総体としての男性の加害者性に厭気を抱きすぎて、男性個人に「潜在的加害者」のレッテルを貼ってしまったことが、ないとは言えない。フェミニズムの勉強をしていると、自分の加害者性に気づかされることも多い。誰も彼もが、貼られたレッテルに苦しんだり、何がしかで傷ついたりしている。社会にとって正しいと思ってやっていることが、同時に、自分の傷つきを解消するための代替行為でもあり得る。じゃあどうしたらいいんだって言われると、わたしの中でまだ答えは出ていない。すごく難しくて頭がこんがらがる。

細かい論点は捨てて、何事も単純に考えるべきだろうか? そんな時に浮かぶのが、あの、てこの原理問題の注意書きだ。

「ただし、棒の重さは考えないものとします」。

なぜこの言葉が添えてあったかと言えば、そうでないと、中学生には問題が解けないからだ。わたしたちが実現したいことを最短ルートでかなえるには、注意書きに従うように暮らすのが、スマートな態度ってことはあるかもしれない。実際わたしがときどき誘惑にかられ「考えないものとします」に流れていることも、かなりあっただろう。

でも、今のわたしは知っている。その捨象の先には、個々の人間の捨象があり、やがて、わたし個人までが捨象される未来がある。それは、ものすごく嫌だ。つまり……「棒の重さ」はやっぱり無視できないのだ。無視しないためには、本を読んだり現実の問題を追いかけたりして、自分なりに考えて、それを人に話して、省みて……を繰り返していくしかない。だから、勉強している。

ちなみに今回の件を知人に話したところ、本人の意思を無視して女性に自衛を求めるような言動の問題性は、ヴィルジニー・デパント『キングコング・セオリー』(柏書房)でも紹介されている、と教えてくれた。まだしっかり読めてなかった……!

すごく難しくて頭がこんがらがるし、苦しいししんどいし、理科の問題と違って、たったひとつの解答もない。多分今のところは全然うまくできてもない。それでも、あがいていきたいと思う。

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