ロック御三家・Char はいつだって気絶するほど悩ましい! 6月16日はCharの誕生日。デビュー前からただ者ではないオーラを放っていたロック御三家のひとり

ただ者ではないオーラを放っていたチャー坊

以前のコラム『奇才と呼ばれ異端を愛したアーティスト、岸田森の素顔』で書いたように、私の伯母の家の年末年始はまさに一年に一回の盛大なお祭り騒ぎだった。年末30日くらいからひっきりなしにご近所さんから仕事関係者が訪れたのだが、従姉妹が芸能関係だったからか俳優、女優の来訪もよくあった。

そんな中であるお正月ふらっとやって来た男性がいた。

従姉妹と話しているその男性は、スラリとして長めの髪にベルボトム。アクセサリーも身に付けていた。そんな見た目もそうだが明らかに只者ではないオーラ。音楽関係の人? いずれにせよ芸能関係者にしか見えなかった。

伯母や従姉妹は、その彼を「チャー坊」と呼んでいた。近所の耳鼻科の次男で学生時代からバンド活動をしていて、若くしてプロのスタジオミュージシャンでもあった。さらに英語も堪能で従姉妹とたまに英語で会話したりしていた。

従姉妹が私に彼を紹介してくれた。すると彼はにっこり笑いながら尋ねた。

「英語分かる?」

従姉妹の親戚だから、当然従姉妹のように英語が喋れると思ったようだ。

「分からないです。でも洋楽は好きです」
「好きなレコードを毎日一日中聴いて、ひたすら真似して歌うといいよ。すぐに喋れるよ。あとで難しいところは従姉妹に習えばいいよ」
「分かりました。チャーさん」

そこに従姉妹の妹が割って入り、渋谷に買い物に行くというチャー坊に一緒に付いて行くから、私に台所の洗い物を交代してくれ… と頼んできた。

エプロンを外し、上気した顔でチャー坊と出かける二人を、渡されたエプロンの紐を締めながら玄関先でずっと見送った。

何て楽しそうなんだろう。大人っていいな。私も早く大人になって夕暮れからお洒落して出かけて行きたい… と切に思った。そして、家に残った従姉妹に頼んだ。

「私も英語でチャーさんと喋りたいから教えてください!」

Charメジャーデビュー、買ったレコードは「気絶するほど悩ましい」

その数年後、従姉妹から「チャー坊がデビューするからレコード買って応援してあげて」と言われた。

1976年6月「NAVY BLUE」でデビューしたチャー坊はCharという表記になり、スーツを着てギターボーカルのバンド編成だった。そして翌1977年の同じ日に「気絶するほど悩ましい」をリリースし、チャー坊… Charを応援したい一心でレコードを買った。

「あら、阿久悠作詞なのね」と母は感心し、Charが出演するというTVは、母と一緒に正座をして観る気合の入れようだった。

この当時は、世良公則とツイスト、原田真二、そしてCharの三者を “ロック御三家” と呼んだ。ちなみに、学校内では、男子は世良公則とツイスト、女子は原田真二、Charという人気図だった気がする。

その年の夏休み。従姉妹宅から最寄り駅に向かう途中、Charさんとばったり出くわし、声を掛けた。

「シングル買いました!良い曲ですね!」
「ありがとう」

Charさんは優しく笑って応えてくれた。

「学校のみんなの反応はどう?」
「洋楽聴いてる子はチャー、カッコいい!って言ってます。リューベンも大人気です」
「あぁ!あいつは最初からルックス担当だから。人気あるなら狙い通りだ!」

…と、リューベンをバックドラムに迎えたことについても話してくれて、戦略や計算立てての行動だと知った。

私が学生だった頃は、兎にも角にもCharさんの名前を出せば、石頭だった父もコンサートに行ったり洋楽を聴いたりすることを黙認してくれた。メジャーデビュー前からギターでプロとして活躍していた “チャー坊” には、一目置いていたからだ。

開業医の家に生まれ、ロックギタリストとしてデビューする彼は変わり種と見られていたが、ある意味、あの時代に楽器… それもエレキギターを修得し、さらに洋楽を贅沢に聴ける恵まれた環境下だから成り立っていたように思う。

ただ、メジャーデビューしてから多忙になったためか、伯母宅の年末年始の宴にCharさんが現れることはなくなった。

その後Charさんは、ジョニー、ルイス&チャー、ピンク・クラウドを結成し、従姉妹達は数回コンサートに行ったようだが私は仕事の事情で行けずじまいだった。

Charと再会、渋谷のライブバーがあの日の伯母宅になった

それからさらに時は流れて、渋谷の片隅にあった、今は無きライブバーで友人男性のパーティーが催された。私は受付を頼まれて椅子に座っていると、聞き覚えのある声の主が受付に来た。

Charさん本人だ!

驚きと懐かしさで、高鳴る鼓動を抑え受付業務に専念しながら様子を見ていると、小さなバーの中はCharさん登場で色めきたっていた。―― それはまるで、昔の伯母宅の正月のようだった。

皆のサインやガラケーの撮影大会の後、隙を見てパーティの主役である友人と話すCharさんに近づいた。友人は米国籍のため、彼ら二人は英語で話す。横に立つ私を見て、友人は英語でCharさんに紹介してくれた。

「彼女はロニー。昔からの友人。ファッション関係者で音楽マニアさ」
「ハイ、ロニー。英語でいい?」

小さなほの暗いバーが、あの日の伯母宅に変わった瞬間だった。私はゆっくりと、品川の伯母宅でCharさんに憧れて英語を従姉妹に習ったことを告げた。すると、彼はやや驚きつつニッコリ微笑んで、

「想い出した!素敵なレディになったね!」

… と、私の左手を自然に握り、彼の口元に私の手を持っていき、キスしたのだ! いわゆる、挨拶のハグやキスは、海外に行ったり外国人と接していたから慣れていたものの、手の甲にキスをされたのはこの時が初めてだった。

「あ、あ、あの… 日本語でいいですかー?」
「いいよー」

頭が真っ白になってしまい、そう口走ったけれど、Charさんはニコニコしていて、少しの間、近況報告をした。

クリス・ペプラーも登場!始まったドラムレスのセッション

そんなハプニングを経て、受付に来場者がいて、慌てて戻ると、そこにいたのはなんとクリス・ペプラー氏! 私の友人、Charさん、クリスの3人は音楽仲間だと後に判明。そんな彼ら3人は普通に英語で話す。

こうしてパーティの夜も更けて、友人がボーカル、Charさんがギター、クリスがベースでドラムレスのセッションが始まった。

クリス・ペプラーのプロ顔負けのベースはドラムレスなことを忘れさせるくらい見事だった。そしてCharさんの、借り物のギターでも水を得た魚のようなギタープレイはまさに、“気絶するほど悩ましい” ままだった。

大人に憧れて、渋谷の真夜中のバーで好きな人の演奏を聴いて、さらにこんなふうに、素敵に年を重ねた大人になりたい―― そう決めたのは、この夜のことだった。

あなたのためのオススメ記事
6歳の頃に聴いた衝撃「THRILL」いくつになっても CHAR を語りたい

カタリベ: ロニー田中

80年代の音楽エンターテインメントにまつわるオリジナルコラムを毎日配信! 誰もが無料で参加できるウェブサイト ▶Re:minder はこちらです!

© Reminder LLC