大村雅朗と松原みきの共通点は? 洗練されたアレンジ「ニートな午後3時」 合掌 6月24日は大村雅朗の命日です(1997年没・享年46)

いつでも時代の最先端サウンドを世に出した大村雅朗

大村雅朗さんが1997年6月29日に天国へ旅立ってから、2021年で24年になる。

2017年に伝記本『作編曲家 大村雅朗の軌跡1951-1997』が出版され、2019年には伝記本に関連したコンピレーションアルバムがリリース。サブスクの普及もあり気軽に聴けるようになった大村さん作品だが、彼が世に出したサウンドは、いつでもその時代の最先端だったとあらためて思う。

伝記本によると、大村さんは福岡市立博多第二中学校時代に吹奏楽部でアルトサックスをはじめ、高校は名門、福岡大学附属大濠高校へ進学。高校でも吹奏楽部で活躍した。

卒業後1970年にヤマハ音楽振興会が設立した全寮制のネム音楽院に第1期生として入学。1年目はバンドコース、2年目はキーボードコースであらゆるジャンルの音楽指導者を育成する機関で音楽漬けになり、課題のアレンジ譜面を書く日々を送り、20歳でヤマハ音楽振興会九州支部に入社した。

ヤマハのスタッフとしてヤマハポピュラーソングコンテスト(ポプコン)やラジオ番組『コッキーポップ』のアレンジ作業と並行し、母校である大濠高校の吹奏楽部を指導。一時期渡米した後には西南学院大学吹奏楽部の指導もしている。

お洒落で洗練、八神純子「みずいろの雨」で売れっ子編曲家に

大村さんは “新しいもの好き” でお洒落で洗練された人だった。ジョルジェット・ジウジアーロがデザインした流麗なフォルムで人気の高い車117クーペに乗っていたが音楽には厳しく、映画音楽やCM音楽で気に入ったものがあるとすぐに譜面に起こして、ポピュラリティのある音楽をブラスバンドに取り入れていたという。

1978年春、26歳の大村さんは一匹のペルシャ猫を抱いて大量のLPレコードとともに福岡から上京した。そして同年秋にリリースされた八神純子さん「みずいろの雨」の大ヒットで瞬く間に売れっ子編曲家になった大村雅朗さん。

大村さんは、常にその時代のアップ・トゥ・デートかつ、大衆に受け入れられるサウンドを意識した “洗練された” 作品を生み出し、ニューミュージック系、歌謡曲系双方で多数の作品を世に送り出し、つなぐ役割を担った。

個人的には1979年であれば、LAサウンドと管弦楽の美しさを加味したフォークロックの音、1980年であれば、LAサウンド×管弦楽の美しさを活かしつつロック系あるいはフュージョン系に寄せた音… が印象に残っている。

さて、そんな大村雅朗さんのアレンジ作品で今回とりあげるのは、1981年の松原みきさんの「ニートな午後3時」。四つ打ちのダンサブルなナンバーで、2021年に韓国のプロデューサーでDJのNight Tempoが「真夜中のドア~Stay with me~」とともにリエディットした1曲でもある。

松原みき、京都の老舗ライブハウスから渡辺プロ、ポケットパークへ

その前に松原みきさんについても触れておきたい。

ジャズヴォーカリストだった母を持つ松原みきさんは、大阪のプール学院中学校時代からバンド活動をはじめ、プール学院高校進学後も京都の老舗ライブハウス「磔磔」で活動、その後1977年、高校3年の時に上京した。

渡辺プロの天地真理さんや沢田研二さんのマネージャーをしていた菊地哲栄さんが、渡辺プロの新人セクションで最後に知り合ったのが松原さんだった。菊地さんは1978年に渡辺プロを退社し、当時のフォーク・ロックブームの中、アリス等で飛ぶ鳥を落とす勢いのヤングジャパンの細川健さんたちと「ポケットパーク」を設立したばかり。

渡辺プロでレッスンを受けていた松原みきさんは「絶対、菊地さんのマネジメントを」と強く希望し、松原さんの父親は渡辺プロを説得、ポケットパーク社でマネジメントすることに。こうして1979年11月5日に林哲司さん作・編曲の「真夜中のドア」でポニーキャニオンからデビュー。1980年1月21日にリリースした所属事務所と同じ名前のファーストアルバム『POCKET PARK』は20万枚の売り上げを記録した。

松原みきと松田聖子の共通点

大村雅朗さんと松原みきさんの出逢いは、テンポのいい四つ打ちのビートが印象的なシングル3枚目。1980年4月21日リリースの「ハロー・トゥデイ~Hello Today~」が大村雅朗さんの作・編曲で、これが松原みき×大村雅朗の最初のコラボレーションとなる。

そこから9か月半後の1981年2月5日にシングル「ニートな午後3時」がリリースされた。作詞は三浦徳子さん、作曲は小田裕一郎さん、そして編曲は大村雅朗さん。この組み合わせは、1980年の松田聖子さんの「青い珊瑚礁」と同じだ。

作品の共通点もさることながら、2歳違いの彼女たちが歌う歌は、実は結構似ている。NHK『レッツゴーヤング』で共演し、ふたりで「真夜中のドア」を歌っている様を観て、ルックスも与える印象も「この娘たち似てる!」と思ったものだ。

資生堂のキャンペーンソングに起用された「ニートな午後3時」

「ニートな午後3時」の “ニート” を英語表記すると “Neat” で、ポジティブでかっこいい意味合いをもつ。関西弁でいうところの「シュッとした」という印象の言葉で、ある種の憧れに近いものがあったと記憶している。決して現在言われる“NEET(Not in Education, Employment or Training)” ではない。念のため。

「ニートな午後3時」がキャンペーンソングとして使われた、資生堂化粧品。ベネフィーク グレイシィファンデーション、資生堂口紅ルアのキャッチコピーは「ニートカラー」。“うすく重なる、すばやく仕上がる、ニートカラー” ”かるい色・味”それまでの厚化粧した印象を与えがちなパウダーファンデーションや口紅を軽い仕上がりに改良し、素肌っぽさや自由を求める都会の若い女性に訴求した。化粧を覚えたての神戸の中学3年生の女子にもCMソングと共にふわっと届いた。

一方、同時期のカネボウ化粧品のCMソングはビッグネームの矢野顕子さんを起用した「春咲小紅」(作詞は糸井重里さん)。中学生のお小遣いでも買える値段(1,000円台)のミニサイズの口紅で、大量のTVCM投下もあり、「ニートな午後3時」はCMソング戦争としては不利だったように感じた。そもそも、当時の普通の中坊から女子高生がする化粧といえば、ファンデは塗らずにせいぜい眉毛を整えてシャインリップか口紅程度だったが、訴求性としてはこちらのほうが大きいと感じた。

松原さんは「ニートな午後3時」リリース時期に資生堂が提供するテレビ番組『おしゃれ』(日本テレビ系)に出演し、自作のアクセサリーや独特のファッションセンスを披露し、「7色以上の色、そうありたいと思ってる」「セクシーって、多趣味、いたずら、茶目っ気、外見も男の人から見てもセクシー」と語っていた。

サードアルバム「Cupid」全10曲を大村雅朗がアレンジ

キャンペーンソングはどうあれ、それまでの歌ってきた経緯×粘っこくアダルトな雰囲気のあるヴォーカルスタイルを持つ21歳の松原さん。LAで豊富なセッション経験を持つDR.STRUTと、松原さんの組み合わせは相性抜群だ。1981年の『Cupid』、1982年の『Myself』、彼女はDR.STRUTと協働で2枚のアルバムを残している。

「ニートな午後3時」の後、1981年4月21日にリリースされた松原みきさんの3枚目のアルバム『Cupid』には、全10曲のクレジットに編曲として大村雅朗さんの名前が並ぶ。作曲は亀井登志夫、小田裕一郎、佐藤健、伊藤銀次、佐野元春、そして松原みき。作詞は松原みき本人による1曲も含めすべて三浦徳子。

A面の5曲については4リズムとサックス、パーカッションはLAのDR.STRUTの演奏で彩られ、そこに日本でコーラスとホーン、ストリングスを重ねていると推測できる。日本のホーンセクションは2021年4月に帰天した数原晋さんを含むメンバーがクレジットされており、ホーンアレンジが映えた仕上がりだ。伸び伸びとフリーダムに歌う松原さんのセクシーさが際立つ。ひとことでいうと「大村さんLAサイド使って、やりたい放題やってはる」という印象。

B面の5曲はA面のファンキーさはないものの、どれも松原さんの多面的なヴォーカルを生かしており、大村さんらしく管弦とグルーヴが生きた洗練された作品になっている。

「ニートな午後3時」はB面2曲目(M-7)に収録されており、シングルとアルバムで “ミックス違い” なので聴き比べても面白い。今剛さんのギターがアルバムでは強調されている。

洗練された作品を遺したという意味では、共通性のあるおふたりではある。ぜひ、松原みきさんについては「真夜中のドア」以外の作品も聴いていただきたい。

カタリベ: 彩

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