建築物としての「倉敷考古館」 ~ 倉敷建築紀行 Vol.1

江戸時代の街並みを現代に伝える「倉敷美観地区」。

中心部となる倉敷川畔エリアのほぼ中央に位置する「倉敷考古館」は、江戸時代末期の米蔵を改装した建物ですが、実は昭和期に増築工事が行なわれています

木造と鉄筋コンクリートが調和した建物は、大原美術館のように「新築」されたわけでもなく、現代風にいえば「古民家をリノベーション」したわけでもない、独特の雰囲気があるのです。

この記事では、建築物としての「倉敷考古館」を紹介します。

倉敷考古館とは

倉敷考古館は、昭和25年(1950年)の11月に開館しました。

岡山県から広島県東部に広がっていた吉備地方とその周辺の遺跡の出土品を、多数展示しています。

美観地区の倉敷川畔エリアのほぼ中央に位置し、目の前には中橋があり、橋を渡った反対側には「倉敷館」という立地です。

倉敷考古館は展示品だけでなく、建物そのものに歴史的価値があります。

倉敷考古館の建物は、江戸時代に活躍した豪商「浜田屋」の小山家の土蔵(米蔵)を外村吉之助(とのむら きちのすけ)が改装したもの。

江戸時代に建てられた歴史のある建物です。

とくに印象に残るのが「上から下までナマコ壁」である点で、定番の撮影スポットになっています。

北側の建物は昭和期に増築

実は、倉敷考古館は博物館としての機能をアップさせるべく、昭和32年(1957年)に増築工事が行なわれました。

設計を行なったのが、倉敷出身の建築家「浦辺鎮太郎(うらべ しずたろう)」

大原總一郎(おおはら そういちろう)とともに倉敷のまちづくりを建築面で支え、大原總一郎死去後も多くの作品を残した建築家です。

©Forward Stroke inc.左側:本館 右側:増築部分

左側の本館は「出目地」のなまこ壁。

中央部分の建物より右側が増築部分です。

浅目地のなまこ壁と白っぽい壁なので、増築部分がハッキリしているのがわかるでしょうか。

本館
増築部分

技術的には本館と同じなまこ壁が再現できるにもかかわらず、あえて新旧がわかるように区別しており、当時浦辺鎮太郎は理由について「新旧の調和です」と答えたそうです

増築部分は置き屋根

白っぽい壁をしている建物(画像右側)を見てください。

三角の「屋根」が見て取れますよね。

▼内部からみると、こんな感じでアーチを描いています(「アーチ構造」といいます)。

外からみた形と、内部の形が違いますよね。実は増築部分の屋根は、「置き屋根」といわれる工法が採用されているのです

「置き屋根」とは、土壁(つちかべ)で覆われた蔵の上に置いてあるだけの屋根のことで、断熱効果や下地が痛みにくいなどのメリットがあります。

ちなみに、「アーチの頂点」はコンクリートが薄くなるそうです。

しかし、強度は強いそうで、強度をあげる効果のために「置き屋根」を採用したわけではないでしょう。

「置き屋根」は美観地区との調和を意識して作られたものと思われます。

画像中央の左よりが倉敷考古館(2018年11月撮影)

美観地区の眺望として「屋根」をキーワードにあげる人は多く、設計した浦辺鎮太郎は当時から美観地区では「屋根」が重要と考えていたのでしょう。

増築部分の内部

続いて、倉敷考古館の中に入って増築部分を見てみます。

米蔵が改築された南側の建物は、梁も立派な木造。

そして増築部分は外から見ると、一見白壁の建物に見えますが、鉄筋コンクリート(RC造)であることがよくわかります。

中庭には「箱式石棺」がある

増築部分の窓から中庭をのぞくと、気になるものが見えました。

通常は入れないのですが、今回特別に案内してもらうと「箱式石棺」があります。

「なぜこんなにわかりづらい場所に置いているのか」質問してみると。

「中庭に展示してある石棺は、以前は階段を上るときにすぐ見えたのですが、2014年に改修工事を行ない壁を設置したため、現在は窓から覗きこまないと見えなくなったんです」

と教えてくれました。

増築部分の壁は2014年に設置された

実は、増築部分の「壁」は2014年(平成26年)に作られたもので、それまでは外階段で雨ざらしだったのです

増築部分完成当時の姿を伝える模型

中庭から見ると、確かに新しい壁。

設置の理由を訪ねたところ、安全上の理由と気象環境の変化だと教えてくれました。

とくに近年ゲリラ豪雨と呼ばれる突発的な大雨が降ったとき、雨が降り込んで大変なことになってしまうのだそうです。

おわりに

普段何気なく通り過ぎていた建物も、足を止めてよく見ると歴史を感じられます。

筆者が今回の取材でもっとも印象に残ったのは、「増築部分の土台」です。

この造り、見覚えがありました。

大原美術館分館の壁です。大きさは違いますが、「石」が混ざっている感じが似ていますよね。

倉敷考古館の増築工事を終えた4年後の、昭和36年(1961年)に「大原美術館分館」が開館します。

当時から浦辺鎮太郎の頭の中には、このデザインがあったのかもしれません。

倉敷考古館の増築工事は、木造と鉄筋コンクリートによる「新旧の調和」を目指していましたが、完成当時は議論を呼んだそうです(どちらかといえば批判が多かったらしい)。

しかし、それから50年以上経過した令和時代においては、もはや街の一部。

倉敷美観地区にある「昭和期の建物」も今となっては味わいがあるし、なぜこのような形なのかを考えると、街歩きがより楽しくなるかもしれません。

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