ユーラシア大陸最西端の地、ロカ岬に到達したからといって大陸横断の旅が終ったわけではない。大きな目的は達成したが、まだその後のスケジュールが残っているからだ。一緒に動いていた田丸カメラマンは、パリから日本へと先に帰国した。そして金子氏は、カルディナとともにロンドンへと向かう。
文:金子浩久/写真:田丸瑞穂
※本連載は2003〜2004年までMotor Magazine誌に掲載された連載の再録です。当時の雰囲気をお楽しみください。
前回の記事はこちら
ユーラシア大陸自動車横断紀行 Vol.20 〜遠路遥々、到達したロカ岬〜
淡々と走り続けるカルディナ。ドーバー海峡を列車で潜り最終目的地のロンドンを目指す
7月30日に東京を出発し、ユーラシア大陸最西端のポルトガル・ロカ岬に到達したのは9月4日だった。いろいろなことがあったけれど、カルディナが盗まれたり修復不可能なほどのダメージを受けることもなく、まぁまぁ、取りあえず無事には目的を達することができた。僕らの身体だって、五体満足だ。
ここからの予定は、帰国便の予約日を変更し、出発地の空港まで行くこと。そして、カルディナをロンドン在住の僕の友人の元へ届けることだ。田丸さんはパリのシャルル・ドゴール空港から、僕はロンドン・ヒースロー空港から帰る便を予約してある。ロカ岬から往路とほぼ同じルートを戻り、ドゴール空港で田丸さんを降ろし、僕は独りでロンドンへ向かうことになる。
それまで、リスボンを2日間ほど観光することができた。ほぼ目論見通りの日程でロカ岬まで来ることができたので、トランスフィンランディア号に乗船以降の“予備日”として設定しておいた2日間がまるまる自由になったというわけだ。
この連載を続けて読んでくれている人は、毎回、疑問に思われたのではないだろうか。
「この人たちは、なぜいつも先を急いでいるのだろう?」
「ロカ岬に早く着こうとする目的は何なのか?」
その答えは、帰国便の予約であり、さかのぼれば、週一便のサンクトペテルブルグからリューベックまでのフェリーの出発日に間に合わせるためだった。
たしかに、“自動車とは、自分で判断して動くから自動車なんだ” とは先月号に書いた。だが、僕らの旅の交通手段はクルマだけでなく、列車や船、飛行機なども含むから、距離と時間を稼がなければならない局面が多かったのだ。
出発前には、サンクトペテルブルグからフェリーに乗るつもりはなかったから、ベラルーシとポーランドを通るためのビザを取得していた。両国とも、通過するためのビザにはそれぞれ2日間の有効期間しか設定されていない。
だから、旅の前半部分は、なんとしてでもベラルーシを8月30日から31日に、ポーランドを9月1日から2日の間に通らなければならない。ロシアとベラルーシの国境手前まで早くに着いているに越したことはない、と勢い込んでトバしていた。
ロシアに上陸した当初は、ベラルーシとポーランドは1万キロ先のことだから、途中で何が起こるか予測も付かなかった。だから、少しでも距離と時間を稼がねば、と無我夢中だった。また、交通量が極端なまでに少ないから、飛ばせばトバしただけ、距離を稼ぐことが出来た。
ビザの有効期限、フェリー、帰国便などのタイムリミットをクリアするために、僕らは先を急いでいたのである。それらのタイムリミットが存在せず、復路もカルディナだったら、クルマの旅らしく、もっとフレキシブルに行動していたはずだ。
自分で考えて判断する 旅は主体的に楽しみたい
一足先に飛行機で帰国する田丸さんをシャルル・ドゴール空港で見送ってから、カレーに向かう。ユーロトンネルを通ってイギリスに上陸し、ロンドンを目指す。
パリからカレーまではオートルートA16号を北上する。空港からA1でいったんパリ市内へ戻り、ペリフェリックを西向きに少し進んだところにA16につながるN1があるはずだ。その辺りの様子は、出発前にいつも外国を運転する際に励行している道路図メモを作成した上で、一応すべてアタマに入れてある。
道路図メモというのは、既存の地図から自分のルートを書き写したものだ。ルート上で通過する街、交差する道、並行する道、街と街の区間距離などを記しておく。用紙は、ホテルの部屋の電話の脇に置かれているメモパッドがちょうどいい。
これをシャツの胸ポケットなり、クルマのセンターコンソールなどに置いておけば、どうしても運転中に確認しなければならなくなっても、素早く取り出すことができる。
また、メモに書き写すことで、ルートのイメージが頭の中に刻まれる。ひとりで未知の土地を運転する上で、この効能は大きい。大きく詳しく書かれた地図では、まず、自分の現在位置を探り当てることに、どんなに短くても数秒間を要してしまう。ひとりで運転する時は地図は“初見”で使ってはいけないのである。
だから、仮に全世界をカバーするカーナビがあったとしても、僕は困った時にしか使わないだろう。カーナビにルート選定を委ねてしまうということは、“自分で判断し、行動する”という自動車旅行で最も肝腎な部分を放棄するに等しいからだ。カーナビに選んでもらったルートをなぞる旅なんて、自分が“運転ロボット”に堕するようなものだ。
道路図メモを何度見直しても、ペリフェリックからN1への分岐点がわからない。それらしい標識が見付からないのだ。然るべきところにA16ないしN1という標識が存在しない。ふたつの気持ちが交錯する。
「おかしい。どんどん遠離っていくから、いったんペリフェリックを降りて、反対車線に入り直そうか」
そう思う一方で、対照的な考えも浮かんでくる。
「まあ、いいじゃないか。どうせ、ペリフェリックはグルグル廻って同じところに戻ってくるわけだから、このまま走り続けてみよう。こんなことでもなければ、パリのペリフェリックを1周するなんて酔狂なことはしないだろう」
結局、後者の気分が勝り、走り続けることにした。渋滞気味のペースが、街並みや路上を観察するチャンスを与えてくれる。“おフランス”的なパリとは言い難い、猥雑な一角などを偶然眼にすることができたりすると、とても得をした気になる。
パリに限ったことではないが、中心部の観光スポットや有名なところばかりに足を運んでいたのでは、都市の懐の深さには触れることはできない。洗練と猥雑の絶対値が大きいほど、都市は魅力的になるのだ。
日常的につながっていた フランスとイギリス
A16への標識は、変則的にA1の手前にあった。これじゃ見付からないはずだ。ここだけ順番が逆転している。一般道のN1を30分ほど走り、自動車専用高速道のA16に乗る。ここからカレーまでは200数十キロの道のりだ。大きな分岐もないので標識通りに走れば間違いなく着く。
A16は空いていた。ロシアの道路も空いていたが、この道もあまりクルマに出会わない。ゆるやかな起伏が続く土地がどこまでも続いていく。追い越し際に眼に入る、イギリスナンバーのジャガーやローバーが段々と増えていく。ヨーロッパ大陸からイギリスへ帰るクルマだ。
カレーまでまだ20数キロもあるのに、A16がある丘の頂きに達する地点で、一瞬ドーバー海峡越しに対岸のイギリスが見えた。そそり立つ岸壁の“地層部分”が白く、海と空の青さと対照的で、鮮やかだった。
何の前触れもなかったので一瞬戸惑ったが、もう一度観てみたかった。サービスエリアを兼ねた展望スペースでもあるだろうと期待していたが、甘かった。現れたのは、「ユーロトンネル」と「フェリーおよびカレー市内」、「ダンケルク市内」という標識だけだ。
トンネル方面に進んでいくと、通行料金支払いゲートが現れた。片道230ユーロ、往復300ユーロ。ビックリするほど高い。前の晩、インターネットに書かれていた数年前の値段では120ユーロとあった。大幅値上げなのか、間違った記述なのか。
でも、ここで慌てても仕方がない。ネットの情報は最後までよく吟味せよという教訓だ。もちろん、クレジットカードで支払う。ついでに、列車の便を指定させられる。クルマは列車に乗り、列車がトンネルを通過する。一番早い約20分後のを頼む。
もうひとつゲートがあり、そこがフランスのパスポートコントロールと税関だった。複数列にクルマが並び、見ているとほとんどのクルマはパスポートを提示しただけで済んでいる。さすがに、練馬ナンバーと汚れた見慣れないカルディナ(そう、ここまで来るとウラジオストクでは99%を占めていた日本車も超少数派だ)は珍しく、脇に呼び止められ、一通りのことを訊ねられる。
「どこから来たんだ?」
東京からです。
「で、このクルマはヨーロッパのどこで受け取ったんだ?」
東京から走ってきたんです。
「えっ!おまえが走ってきたのか」
もちろん。一緒だった友達はパリから飛行機で帰ったけど。
「気を付けて」
次に、イギリス入国のためのパスポートコントロールが控えているのだが、順路がうまくできていて、巨大な免税品店の前を通るように誘導される。
カルディナを停め、中に入ってみるとワインをはじめとする各種の酒と食品、タバコ類をたくさん売っている。ワインを木箱単位で買っていく人が少なくない。これから訪れるロンドンの友人のためにワインを買おうかと考えたが、一緒に酒を飲んだことがないのを思い出したので、フォアグラの瓶詰めとキャンディを手土産に買った。
(続く)
金子 浩久 | Hirohisa Kaneko
自動車ライター。1961年東京生まれ。このユーラシア横断紀行のような、海外自動車旅行を世界各地で行ってきている。初期の紀行文は『地球自動車旅行』(東京書籍)に収められており、以降は主なものを自身の ホームページ に採録。もうひとつのライフワークは『10年10万kmストーリー』で、単行本4冊(二玄社)にまとめられ、現在はnoteでの有料配信とMotor Magazine誌にて連載している。その他の著作に、『セナと日本人』『レクサスのジレンマ』『ニッポン・ミニ・ストーリー』『力説自動車』などがある。
田丸 瑞穂|Mizuho Tamaru
フォトグラファー。1965年広島県庄原市生まれ。スタジオでのスチルフォトをメインとして活動。ジュエリーなどの小物から航空機まで撮影対象は幅広い。また、クライミングで培った経験を生かし厳しい環境下でのアウトドア撮影も得意とする。この実体験から生まれたアウトドアで役立つカメラ携帯グッズの 製作販売 も実施。ライターの金子氏とはTopGear誌(香港版、台湾版)の 連載ページ を担当撮影をし6シーズン目に入る。