トランポリン男子で初の五輪に挑んだ堺亮介(24)=バンダイナムコアミューズメント、神奈川県伊勢原市出身。望んだメダルには届かなかったものの、母・敦子さん(53)は「小さい頃の夢がかなった。ここで一区切り。次の目標に向け、さらに強い選手になってほしい」。中学卒業後、親元を離れた次男にねぎらいとエールを送った。
「言葉をもらうことはないけど、僕のことを家族全員が気にしてくれている」。大会前、堺は感謝の思いを決意に変えていた。
幼少期から負けず嫌いだった。「一緒に自転車で出かけても先に行きたがっていた」とは祖父の勇さん(86)。敦子さんも笑う。「昼休みが終わると、げた箱に一番先に着いていないと気が済まない。誰かに並ばれたくないという性格」
トランポリンを始めたのは、もともとクラブに通っていた母の影響だった。小中学生時代は敦子さんがコーチ。自宅では練習中の動画を確認して修正点を話し合った。「高度な技になるほど何十回、何百回と見て亮介の感覚と私の目が合致するようにしてきた」。技術的な助言を行うため、母は審判の資格を取得し、点数が伸びない原因を探った。
ただ、二人三脚の日々は10代半ばにして終わりを迎える。堺は名門・星稜高(石川)へ進学。背中を押しながらも親心は複雑だった。「一人になったときにふとさみしいなと思うことはあった。2歳で始めてからずっと一緒だったので」
大きな成長を遂げた石川での7年間。その裏には母が知らない苦労があった。
級友は硬式野球やサッカー部の選手ばかり。なかなか友達ができず、入学当初は休み時間の話し相手がいなかった。熱が出ても一人。骨折するほどのけがでも自転車で病院に行き、帰りはギプスをはめて片足でこいで帰ってきた。それら全て、母に告白したのは卒業間際になってからだった。
「すごく勝ち気で、弱い部分を見せたくない子だから」。自宅にいればストレスを抱えなかったかもしれない。母は胸を締め付けられる思いになったという。同時に、その環境が自立心を育んだとも思う。
「たまにしか会えないんだから、こういうときに親孝行するんだよ」。高校時代、堺は母との記念撮影を渋る後輩をそう諭していた。敦子さんは言う。「家族がいないつらさを味わった分、大人になったんだと思う」
結果は15位。敦子さんは愛息にこんなメッセージを送ったという。「夢だった五輪出場が決まってから2年間長かったね。ここから第2章に入ったね」。世界選手権、パリ五輪…。家族で紡ぐ物語に、新たなページが加わった。