遠慮越え、次世代へ語り継ぐ 映画監督の西川美和さん  被爆76年インタビュー

 鋭いまなざしで濃密な人間関係を映し出してきた映画監督の西川美和さん(47)は、広島市で生まれ、被爆体験を聞いて育った。「広島の人間が常に十字架を背負う必要はないと思う。自分が突き詰めていないことに安易に着手はできない」と、これまで原爆や戦争にひも付く映画を作ることはなかった。だが戦争体験者が少なくなる中で、気持ちが変わりつつあるという。(共同通信=小作真世)

インタビューに答える映画監督の西川美和さん

 ▽広島の在り方、誇らしい

 ―広島市で生まれ育ち、原爆や戦争に対してどのような思いを抱いてきたか。

 子どものころは原爆の日のことを知る家族から話を聞くのが憂鬱(ゆううつ)でした。あまりにも日常的なので、深刻に受け止めるより、聞き流して耐えていました。ですが、大学進学で上京し、違う出身地の人たちと話していると、戦争に対する意識の差や距離を感じました。「核を使え」「戦争だ」なんて言葉を冗談混じりに口にするのを聞いて、自分が傷つけられたような気持ちになったのは意外でした。

 ―今の広島への思いは。

 昨年、展示が新しくなった原爆資料館に行きました。学校の集合写真には「普通に生きていた人が一瞬で無になるんだ」と想像力を働かせる余地があり、印象的でした。近くにある原爆ドームも、広島のアイデンティティーだと思います。負の遺産とともに生きる広島の在り方はまっとうで、誇らしいです。

 ―原爆の被害とどう向き合うべきか。

 自分ばかりひどい目に遭ったという理屈では、平和とは真逆の方向に行ってしまいます。私は広島に原爆が投下された「8月6日午前8時15分」を知っていても、全国の空襲の被害のことはちっとも知りませんでした。広島、長崎だけでは戦争の被害も加害も決して語り得ないでしょう。学校でも、戦争というものは何だったのか、常にリニューアルしながら包括的に教えていってほしいと思います。

 ▽戦時中と似ている

 ―9年前、戦時中に通信隊に召集された伯父の手記を基に、小説「その日東京駅五時二十五分発」を出版した。

 特に過酷な体験もなく、原爆投下後に帰郷した青年のさざ波のような物語です。伯父が親戚の間で配った手記を読んで、史実の断片として残そうと思いました。感情を大きく揺さぶる話は映像化されやすく、語り継がれます。でも、この青年のように、全然ドラマチックじゃない終戦のプロセスを経た人もたくさんいたんじゃないでしょうか。執筆中に東日本大震災が起き、『大きな崩壊』に直面した時の心境を体感しながら書き上げました。

インタビューに答える映画監督の西川美和さん

 ―今の社会から感じることは。

 「気が付いたら戦争になっていた」なんておかしいと思っていましたが、本当にそうなのかもしれません。愚かな戦争を経て、自分たちは学び、賢くなったはずだと思い込んでいました。でも今、国の体質や、政府と国民との距離感が戦時中とすごく似ていると思います。国が決めたことを何一つ変えられません。誰も止められないんです。実は全然成長できていなかったことに、みんな気付き始めています。

 日本は重たくて複雑な歴史を背負っています。あれだけ大きな戦争で負けて、被害も加害もあって、その責任の所在が明らかにされないまま与えられた民主主義の下で国を再構築してきました。こんな難しい過去を、できれば忘れてしまいたいというのが、戦後に生まれた世代の本音ではないでしょうか。

 ▽どんな語り継ぎ方ができるか

 ―脚本家、映画監督としてできることは。

 戦争体験者が語れる時代は終わりつつあります。話を直接聞いた人間が、その感触を伝えていくしかない時期に来ているのではないかと思うようになりました。ただ、戦争を体験していない作り手には、苦しい思いをした世代に対する遠慮があります。言ってしまえば、被害者に寄り添う語り口がどうしても多くなります。「自分たちも加担していた」という先祖の加害性まできちんと描くのは難しい。過去に当事者が作った物のほうが厳しくて内省的だし、迫力とリアリティーがあるのは当然です。

 そうしたことを踏まえて、私たちはどんな語り継ぎ方ができるのか。あらゆる痛みについて考え、次世代に伝えるのが、この国に生まれた私たちのタスクなのかもしれません。うまくいくかやってみないと分かりませんが、新しい語り口を探る日も来るかもしれません。

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 にしかわ・みわ 1974年広島市生まれ。2002年に「蛇イチゴ」で脚本・監督デビュー。最新作は今年2月公開の「すばらしき世界」。

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