イタリアのビーチと水着

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イタリア在住のイラストレーター・マンガ家のワダシノブさんが、
イタリアの暮らし・文化・人などの情報をお届け!
今回はイタリアのビーチで感じた、好きに装うことについて。


(イラスト:ワダシノブ)

日本にいる頃、「今日の私、大丈夫?」と誰かに合否判定してもらいたくなるときがたびたびあった。

「アラサーの生足は痛い」「おばさんは二の腕を出すな」という直球の批判から、「その服どうしたの?」「疲れてる?」「痩せた?」「太った?」といった質問まで、なんだかんだと見た目のことを言われるからだ。だから、どんなに好きな服を着ていても、向けられる目線を怖く感じていたのだ。

イタリアに来て10年以上経つ今となっては、この種の言葉を聞いても聞き流せるようになった。(まず、見た目に対して、当人へコメントするのがアウトなのは当然だけど)
何かをいう人に対して、「へー、あなたはそう思うんだ」と、自分を傷つけずに相手の価値観の問題として考えられようになったからだ。

他人の容姿に厳しい目を向ける前に、まずは夏のイタリアの海辺に来てほしいなと思う。

イタリアの海辺には、少年からおばあさんまで、肌の色や体型、年齢、性別に関係なくあらゆる人がいて、みんな好きな水着を着て太陽の光を浴びている。
派手な水着も地味な水着もなんでもありだ。ビキニ姿のおばあさんも、車椅子で派手な水着を着ている男の子もいる。太陽の下、好きな色と形の水着で装う自由がそこにある。

どんな装いをするかは、自分が決めることだから。他人が何を着ていようと、トップレスでいても、どうでもいい。誰かの見た目をジャッジして、回り回って自分の首を絞める必要はない。
生足が痛い? そんなこと言ったら、「Pensa a te stesso !(自分のこと考えてろ)」と言い返されて終わりだ。だいたい「年寄りは隠せ」なんて、ビキニを70年以上着ている先輩に、誰が言えるだろうか?

もちろん、イタリアがいつでも最高だとは言えない。「肌は露出してこそ美しい!」という風潮は苦手だ。私自身、女の子の母親として小さいうちから「女であれ」という圧を感じる。
それに、イタリアではおしゃれをして行く場所やイベントが日本より多いから、そんな場所に普段着で行ったときのいたたまれなさは、なかなかなものだ。

それでも、日本で感じていたように、特別に女性だけが“見られるもの”として多くの注意を向けられないから楽だ。
なぜなら、イタリアでは男性も女性もそれ以外も同じように見られているから。「そこにいたから見た。以上」と、ただ単に木やものを見るような感じになる。それ以上の評価をしない。だから、見られていても重く感じなくてすむ。

周りは自分をその辺の木くらいにしか見ていないと分かっていれば、好きに装えばいいと思える。肌を出したい人は出せばいいし、隠したければ隠せばいい。たまに失敗することはあっても、本来お洒落は楽しいものだ。

自分が好きな装いをしていると、 他人の装いにもおおらかでいられる。 誰かが素敵だったら素敵だと伝え、好きじゃなかったら何も言わない。それだけだ。それ以上は必要ない。
「痛い」「その年齢で」なんて言いたくなるのなら、自分がそうしなければいいだけ。他人は他人なのだから。

それでも「好きな服着ているからいいんだ!」って思えないとき、過度に人の目線が気になるとき。ビキニの先輩たちを想像して欲しい。何か言ってくる人には「自分のことだけ考えてろ!」だし、いくつになっても人は好きな格好でいいと思えるはずだから。

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