「生きるとは」考え続けてほしい 詩人の橋爪文さん 被爆76年インタビュー

 14歳のときに広島市の爆心地から約1・6キロで被爆した詩人橋爪文さん(90)は、76年前の想像を絶する体験を、淡々と語った。一瞬で消えた街、変わり果てた人々。自身も死の淵をさまよった。身近な人を奪い、人生を狂わせた核への怒りを作品に込め、世界各地を歩き、その非人道性を訴え続けた。卒寿を迎えた今、若者に向けて「生きるとは何か」を考え続けてほしいと呼び掛ける。(共同通信=大根怜)

インタビューに答える詩人の橋爪文さん

 ▽太陽が落ちてきた

 ―14歳で被爆した。
 あの日は学徒動員で広島市の逓信省貯金支局にいました。大きな窓に向かって立っていたら、突然まぶしい七色の閃光せんこう(せんこう)が目に入ったんです。「太陽が落ちてきた」と思った途端に気を失いました。気がついたら、しんとして辺りは真っ暗。あれほどの静けさを、暗さを、私は経験したことがありません。右手に、ねっとりとしたものが流れてきました。右耳の辺りから出血したようです。

 出口に向かう階段の途中に小さな女の子が倒れていました。掃除のおばさんの娘でした。おなかが裂け、腸が噴き出しています。でもみんなまたいで行く。私も「南無阿弥陀仏」と唱え、またぐしかありませんでした。

 何が起きたか分からず、みんなぼうぜんとしていました。出血が止まらない私を見た先輩の女性が私を抱きかかえ、近くの広島赤十字病院まで連れて行ってくれました。

 ―そこでの光景は。

 年齢も性別も分からない人、顔が倍以上に膨れ上がった人、眼球が飛び出した人。皮膚はぼろ布みたいになり、ぶら下がっています。人間の姿をすっかり失った人たちが集まっていました。

 私は眠くて仕方ありませんでした。すると医師と思われる男性が「大変な出血だ。眠らせると死にますよ」と言うので、先輩が名前を呼び続けてくれました。地下室に避難し、少し力が湧いたので「一体何があったんでしょう」とささやくと、先輩は安心したのか、泣いて喜んでくれました。

 先輩は自分の母親の消息を確かめるため「必ず戻るからね」と言い、周りの人に私を託して外に出て行きました。そのうち火が回ってきて、部屋に入ってきた煙を「あれが私のところに来たときに死ぬんだな」と眺めていると「早く逃げろ」と叫ぶ男の人の声が聞こえ、ふっと立ち上がることができました。

 地上に出ると、街がすっかり消え、まだ夢の中にいるようでした。16歳の少年が助けてくれて、火の粉の中を一晩過ごしました。翌朝、母に会いたくてたまらなくなり、少年と別れ、自宅がある方へ歩きました。

 父が幸い大きなけががなく、家族を捜して集めてくれていました。それで私も合流できたのですが、7歳だった弟は全身にひどいやけどをして亡くなっていました。

インタビューに答える詩人の橋爪文さん

 ▽「書きなさい」

 ―その後の生活は。

 近所の家族が、棒を4本立てた上に焼けたトタンを乗せただけのバラックを建て、私たちもそこに入れてもらいました。雨水を飲み、食べるものは雑草だけ。みんな重傷でしたが自然治癒に任せるしかありません。病気にもなりました。

 母は太陽のように明るい人でした。父はどんなにつらくても愚痴を言わない人。明日はわが家が餓死するかも、という状況でも笑い声が絶えませんでした。両親には感謝しています。

 ―創作を始めたきっかけは。

 3人の子どもがまだ幼いとき、原爆症の悪化で私の寿命があと半年だと2人の医師に言われたんです。自分が死ぬのは自然なことと思いましたが、子どもたちはこの先どうやって生きていくだろうと考え、童謡を残すことにしました。つらいことや悲しいことがあったとき、童謡を口ずさんで、お母さんが励ましてくれていると思ってくれれば…。そんな願いを込めて。それが最初です。

 原爆のことは思い出したくもありませんでした。けれど被爆から50年近くたったとき、知り合いから「書きなさい」と求められ、押されるような形で書き始めました。

 ―やがて海外へ一人旅するようになった。

 世界中で苦しんでいる人々と会って、人間の不幸や幸せとは何だろう、と肌で触れてみたくなったんです。60歳になって、英語の勉強を始めました。ただ言葉が分からなくても、身ぶり手ぶりで何とかなるものです。

 自分の詩を英訳して、欧州などの学校で原爆のことを話しました。小さい子でも広島や原爆のことを知っていて「ヒロシマ」と聞くと、目の色が変わるんです。私ひとりがみんなの前に立つだけで、反核を訴えられるのだと気付きました。

 ▽国民はもっと怒っていい

 ―今の日本に対する思いは。

 日本は第2次大戦後、武力を持たない真の反核平和国家として再生すべきでした。そうすれば世界中から尊敬されていたでしょう。だけどどんどん悪い方向に進んでいる。東京電力福島第1原発事故が起きたにもかかわらず、原発をやめるどころか再稼働させています。今年1月に発効した核兵器禁止条約にも真っ先に批准すべきだったのに署名すらしようとしません。国民はもっと怒ってもいいのに、大騒ぎしないのは国民性ですね。

 ―若者に伝えたいことは。

 今は新型コロナウイルス禍で難しいかもしれませんが、一度日本を離れて外から見てほしい。とても勉強になりますよ。そして『生きるとは何か』を常に考え続けてほしいです。

 私たち被爆者はいずれいなくなります。原爆の話を聞いてもよく分からないと思いますが、話し続けなければもっと分からなくなるでしょう。ただ一生懸命考えてくれる若者はいます。そういう人たちが、きっとこの思いを引き継いでくれると信じています。

 

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 はしづめ・ぶん 1931年広島市生まれ。詩人。著書に「少女・十四歳の原爆体験記―ヒロシマからフクシマへ」「8月6日の蒼い月」など。

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