ひれふさずに生き延びたい  #それでも女をやっていく

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会社員、フリーライターであり、同人ユニット「劇団雌猫」として活動するひらりささんが、「女」について考えるこの連載。
今回は8月6日に起きた小田急線刺傷事件から感じたことについて、綴っていただきました。


駅に供えられていた花束の重みを、わたしはすぐには理解できなかった。

2019年1月、わたしは人生で初めて韓国に渡航した。とあるウェブメディアの「2万円を自己投資しよう!」という企画に参加し、日帰りでソウルひとり旅すると決めたのだ。航空券は税込22,330円。予算より多少足が出ていたが、自分で払えばOKとのこと。韓国メイクやファッションへの熱が高まっていたタイミングで、現地のブランドショップでコスメやファッションを買い漁るのが目的だった。

旅行の計画を立てるなかで、挑戦したくなったことがあった。韓国の美容医療だ。コロナ禍で下火になってしまったが、当時は「渡韓整形」の全盛期。コスメアカウントがおすすめ韓国コスメをツイートする一方で、整形アカウントが渡韓レポやクリニックレポを投稿しており、直接の友人からも、渡韓プチ整形の話が出ていた。興味を持ったのは「水光注射」だった。極細の針で肌に美容成分を注射し、肌質を向上させる美容医療だ。メスを入れる覚悟はないが、注射くらいならいいだろう。クリニックに予約を入れると、地図が送られてきた。最寄駅は、江南駅。大企業や芸能事務所なども多い繁華街で、エステ・美容クリニックも集中しているのだそうだ。そういえば「江南スタイル」って曲が流行ってたな、と思い出した。ガイドブックを買い、荷物を詰め、早朝の便でソウルに発った。

江南駅で見かけた花束の意味

1月のソウルは、想像を絶する寒さだった。自前のコートの上に、友人から借りたアウトドアブランドのフリースを着て、やっとしのげる程度。でも、とても楽しかった。水光注射にも多少のダウンタイムはあったため、旅程のラストに組み込んでいた。江南駅に着いたのは午後4時ごろ。手元の地図をみながら地下ショッピングモールをひた走り、最寄り出口を駆け上がった。いくつか花束が置かれていて「何なんだろう?」と思ったが、予約時間が迫っていたので、立ち止まれなかった。そのままクリニックへ駆け込んだ。

(イメージ:写真AC)

花束が、「江南駅通り魔事件」の被害者に手向けられたものだと知ったのは、ソウルから帰ってすぐのことだった。韓国で130万部超のベストセラーとなった『82年生まれ、キム・ジヨン』が日本でも版をかさねる中いくつかの紹介記事で、事件に触れられていた。『82年生まれ、キム・ジヨン』の原書刊行と、公衆トイレを出た22歳の女性が滅多刺しにされて亡くなった悲劇はともに2016年だった。あの花がそうだったのか。記憶が逆流して、脳に迫ってきた。

わたしたちは、いつも、露出狂や痴漢やレイプに遭う危険に晒されている。女性から男性、男性から男性への加害も無視できないが、他人の加害を日々意識し、死に至ることも覚悟して暮らしているのは、やはり女性が多いだろう。世界の女性の3人に1人が、これまでの人生で身体的または性的な暴力の被害を受けたことがあるとする推計も発表されている(2021, 世界保健機関)。

女性であるだけで憎悪を抱かれ殺人の対象になること−−いわゆるフェミサイドの存在も、いくつかの事件を通じて知っていた。2014年にアメリカでエリオット・ロジャーという青年が女性との交際ができないことを理由に大量殺人を犯した事件や、その後彼を信奉した「インセル※」たちが同様の犯罪を犯したことも、覚えていた。だけど、あんな明るい、盛えた街のど真ん中、誰もが行き交う共用トイレで、殺された「彼女」がいたと知った時、わたしの恐怖は、いまだかつてなく鮮明で生々しいものになった。

わたしは日本人で、江南駅を通り過ぎたのは一度きりだった。2016年5月17日ではなかったし、共用トイレも使わなかった。でも、たんに運が良かっただけだった。

もちろん、あらゆる通り魔事件において、被害者にならなかったことは「運が良かった」だけにすぎないかもしれない。いちいち怯えていたら生活できない。誰でも、夜道を歩きたくないし、好きな格好をしたいし、自分の意志を制限されたくない。そういう抑圧をもたらすものにできるだけ対抗したい。気持ちの上では思っているが、江南駅通り魔事件のような事件やその爪痕に触れると、女性たちの「運」が、あまりにもか細い糸であることに絶望しそうになる。

(※)本人が望んでいるにもかかわらず、恋愛や性的パートナーを持てず、その原因を対象である女性側にあると考える人々のこと。

“運が良かっただけ”で済ませたくない

2021年8月6日の夜にも、惨劇は起きた。走行中の小田急線内で男が複数の乗客を刃物で切りつけ、逃走したのだ。帰宅ラッシュの電車内での通り魔というだけでも恐ろしい出来事だが、自首して逮捕された容疑者の「幸せそうな女性を見ると殺してやりたいと思うようになった。誰でもよかった」という供述に戦慄した。容疑者は事件前に食料品店で女性店員に万引きをとがめられたのを恨み、成城学園前―祖師ケ谷大蔵間を走行する電車内で犯行に及んだ。特に、20歳の女性を執拗に狙い、背中や胸の7カ所を切りつけて殺害しようとしたのだという。

新宿周辺に暮らすわたしにとって小田急線は身近な生活圏だ。ちょうど事件の翌日、8月7日に小田急線を使う用事があったのだが、電車に乗る時にかなりのためらいを感じた。

一部メディア記事が「女性」という記述を落として「人」としたり、「誰でも良かった」を強調してこれはフェミサイドではないと主張する人がいたりして、SNSは紛糾した。たしかに男女両方の被害者がいる事件だが、容疑者の供述に対して「愛想よくするのをやめよう」や「目立たないように暮らそう」と思う男性はほとんどいないのではないだろうか。ラベルを貼ることで模倣犯が起きるリスクを説く意見も見たが、可視化されなければ、改善策の見えてこない犯罪だと思う。

こうして文章を綴っているわたしは、今回もまた運が良かっただけだ。でも本当は、単に運が良かったりとか、できるだけ目立たなくしたり自衛をしたり家から出るのをやめたりとか、そういう話で済ませたくない。もっとたしかな実感で、安全に、怯えずに、警戒せずに、生活したい。他の女性たちにもそうでいてほしい。これまで、誰とでもは連帯しようと思わないし、特定個人を対象にしたSNSでのハッシュタグ告発にも慎重なほうだった。ただ、今回「#StopFemicides」というハッシュタグにものすごく救われた。えも言われぬ不安や恐怖、過去に受けた傷などを共有できることも、言葉が生む力なのだと知った。

(イメージ:写真AC)

世界の事例を見た時に、親しい間柄で行われるフェミサイドには、避難所の設置や相談所の設置、接近禁止命令、厳罰化などの動きがあるという。しかし、ほとんど見ず知らずの他人からのフェミサイドには、個別具体的な手段をとりようがない。ひとまずは、他の無差別殺人事件と同様の対策を取っていくしかないのだろう。それ以外で考えられるとすれば、社会の根底に根付いた抽象的なミソジニーを取り除くことだけだ。

今はまだ絶望のターンで、事件が起きる前には時間を巻き戻せなくて、とにかく被害にあった女性の心と体の傷が癒えるのを祈るしかない。わたしには「このままで世界で暮らしたくない」と叫ぶしかできない。声をあげるだけでも労力と危険が伴うし、どうしてこんなことにわたしたちばっかり時間を使わせられているんだろう、と腹が立つこともある。怖さに身がすくんで、自分が逃げることを選んだこともある。

新卒就職時、上司から「おじさんを転がせると思って雇ったのに」と罵倒された時に、「それハラスメントですよ」と盾つくことはできなかった。職を失うかもしれなかったし、罵倒で済まずに手をあげられたらどうしようという恐怖もあった。個人が生き延びることと、社会を変えることが、一致しない時は多い。でも、社会を変えるほうが、生き延びられる個人は増える。逃げる余地も残しつつ、ちょっとずつ、立ち向かう場面を増やしている最中だ。

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