キャンディーズは解散することで新しい時代をスタートさせたんじゃないか 1978年 4月4日 キャンディーズの「ファイナルカーニバル」が後楽園球場で開催

キャンディーズ解散コンサート、場違いを越えた強烈なインパクト

すでに触れている方もいらっしゃるけれど、1978年4月4日に後楽園球場で行われたキャンディーズの解散コンサート『ファイナルカーニバル』は、僕自身にとってもとくに印象に残るイベントのひとつだった。

でも、なぜあのコンサートがそんなに印象に残っているのか、改めて考えてみた。

第一に、後楽園球場で行われたこと。

あの時代、後楽園球場でのライブと言えば、1971年7月17日に行なわれた伝説の “雨のグランドファンク” ライブのイメージだった。そもそも後楽園球場と言えばジャイアンツであり、コンサートなんかほとんど行われない場所だった。そんな場所で、キャンディーズが解散コンサートをする。そのこと自体、場違いを越えた強烈なインパクトがあった。今からすれば、それは音楽シーンが大きく動いているな、という実感でもあったんだと思う。

キャンディーズは “あっち側”? “こっち側” ?

そもそも、キャンディーズは “あっち側” に居たハズだった。それが、気づいたら “こっち側” に来ていた。そんな感じだった。“あっち側” “こっち側” と言っても今となってはピンとこないかもしれないけれど、当時の音楽好きな若い世代にはわりと一般的な感覚だったんじゃないかと思う。

簡単に言えば、フォークやロックなど、あのころ新しく台頭してきた音楽の流れにシンパシーを抱いていた僕にとって、マス市場を牛耳っていた既成の歌謡界は、感覚的には相容れないものだった。だから “あっち側” だった。

その感覚で言えば、渡辺プロダクションの申し子だったキャンディーズは完全に “あっち側” の存在だ。正直に言えば、“あっち側” だけど嫌いじゃない、という感じだった。

解散宣言で自分たちの意思を貫いたキャンディーズ

そんなキャンディーズに対するイメージがグラつき出した。1977年3月に出たシングル「やさしい悪魔」は喜多條忠・作詞、吉田拓郎・作曲、同年9月に発表された「アン・ドゥ・トロワ」も同じ作家陣が曲を提供していた。

もともとGS出身の作曲家、穂口雄右が手がける軽快でポップな楽曲を数多く歌っていたキャンディーズに悪い印象はなかったけれど、吉田拓郎のコラボレーションによって、僕はさらに彼女たちに目を向けるようになっていた。そして、この吉田拓郎提供の2曲の間に起きたのが解散宣言だった。ステージ上で突然の発表。それはスタッフサイドの演出ではなく、彼女たちが周囲を押し切って発表したのだという話も伝わってきた。

あの解散宣言については「普通の女の子に戻りたい」だけがクローズアップされ過ぎているけれど、僕がなによりインパクトを感じたのは “あっち側” の子が、“大人たち” の思惑を超えて、自分たちの意思を貫いたということだった。

全キャン連もバックアップ、客席に満ちていたポジティブな意識

「解散」を巡ってはいろいろめんどうなことがあったハズだ。あの時点でのキャンディーズは、まだまだ商品価値も高かったのだから。しかし、それでも自分たちの意思を貫こうとする彼女たちを、ファンクラブの「全キャン連(全国キャンディーズ連盟)」がバックアップした。

彼らはキャンディーズの解散を支持する「宣言」を出し1978年4月4日の解散コンサートまでの彼女たちの活動を、事務所とは一線を引いた “有志” 的立場で盛り上げていった。ファンクラブがタレントの解散を支持し、応援する。そんなムーブメントを起こした “あっち側” の歌手を僕は知らなかった。僕は、キャンディーズに対する好奇心を刺激されまくっていた。

ライターの仕事を始めたばかりだった僕は、幸運にも当時はサブカル雑誌だった『宝島』で彼女たちにインタビューをさせてもらった。解散コンサート直前というけっこうな騒ぎの渦中に居たハズの彼女たちが、気負いもなく素直に想いを言葉にしてくれたのを今でも覚えている。ともあれ、キャンディーズの解散は、芸能ニュースとなるだけでなく、サブカルシーンにも興味を抱かせるインパクトをもっていたのだ。

4月4日の後楽園球場には、歌謡ショーを観に行く時に感じるアウェイ感は無かった。逆に、僕にとって親しみのある野外ロックフェスに通じる空気感があった。これが最後のステージだという湿っぽさよりも、かけがえのない時間を一緒に作り上げていくんだというポジティブな意識が客席にも満ちていた。

80年代を予兆? 解散宣言~後楽園コンサートをプロデュースした大里洋吉

今思えば、僕はその現場で、なにかの終わりではなく、なにかの始まりを目撃していたんだと思う。それは、“こっち側” “あっち側” というそれまでの概念が変形していった80年代という時代の予兆だったのかもしれない。

このキャンディーズの解散宣言から後楽園コンサートまでの流れをプロデュースしていたのが大里洋吉さんだったということも象徴的だ。渡辺プロダクションでキャンディーズのマネージャー体験がある大里さんは、この時期、新たなプロダクション、アミューズを立ち上げたばかりだった。

大里さんは、キャンディーズの解散コンサートを成功させた直後にサザンオールスターズをデビューさせて、本格的に80年代のシーンを切り拓いていくことになる。

カタリベ: 前田祥丈

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