「黒い雨」被害、放置された91歳の思い  救済の道は開かれるか

 76年前、米軍による広島原爆の投下直後、広島市周辺の広範囲に「黒い雨」が降った。雨で放射線被ばくした原告84人を被爆者と認めた7月の広島高裁判決確定を受け、政府は「原告以外の被害者も救済する」と表明した。

 「私も対象になるのか」「本当に被爆者健康手帳をもらえるのか」。裁判に参加しなかった高齢者に期待と不安が入り交じる。長年、被害を訴え続けたが放置された広島市の平野玉貴(ひらの・たまき)さん(91)もその一人だ。(共同通信=佐々木夢野)

自宅前で当時の状況を話す平野玉貴さん

 ▽突然の汚れた雨

 1945年8月6日朝、平野さんは爆心地から約20キロ離れた現在の広島市佐伯区湯来町白砂の自宅で、洗濯物を干していた。山の向こうに赤い火の玉が現れ、晴れた空に太陽が二つあるように見えた。火の玉はゆらゆら揺れてパッと消え「ドーン」と大きな音が響いた。空はみるみるうちに黒い雲で覆われ、風で木々が激しく揺れ、焼けた新聞紙が飛んできた。

 突然、汚れた灰色の雨が強く降り、平野さんはびしょぬれに。雨に放射性物質が含まれていたと知ったのはずいぶん後になってからだ。30代で胃潰瘍になったが、病院へ行っても原因は分からない。背中や腰に痛みや不調を感じるたび「あの時の雨のせいでは」と考えた。

原爆投下直後に太陽が二つあるように見えた山を指す平野さん

 ▽「特例区域」外

 76年、国は爆心地から北西へ約19キロ、幅約11キロの楕円(だえん)形の範囲を、大雨が降ったとして援護対象となる「健康診断特例区域」に指定した。原爆投下当時この中にいた人は、無料で健康診断が受けられ、特定の病気を発症すれば被爆者と認定されて被爆者健康手帳が交付されることになった。だが、平野さんの住む湯来町は大半が区域外とされた。

 

 その後、区域拡大を求める活動が活発化する。平野さんも地元の集会で何度も証言した。市役所の担当者にも話したが「今になってどうしてそんなこと言うんですか」と突き返された。近所の人たちは「手帳はもらえない」と嘆き、平野さんは「何言うても、見てないもんには分からん」と諦めるようになった。

広島に投下された原爆のきのこ雲=1945年8月6日

 ▽「死ぬ頃になって」

 今年7月、原告を被爆者と認める広島高裁判決を受け、政府は上告を断念する政治判断を下した。そして、原告以外の救済も「早急に対応を検討する」とした首相談話を閣議決定した。だが、まだ具体的な指針は決まっていない。

 平野さんは、これまで何度訴えても被爆者と認めてもらえなかっただけに「死ぬ頃になってなぜ今なんじゃ」と複雑な思いを明かす。「手帳はもらえるなら欲しいが、もう昔のことは思い出せない。本当に救済してもらえるんじゃろか」

 原告弁護団や支援者は、平野さんのように裁判に参加しなかった人たちの救済に向け、9月18、19日に広島県内で相談会を開いた。300人以上から問い合わせがあり、定員80人はあっという間に埋まった。

訴訟支援者らによって開かれた原告以外の救済に向けた相談会の様子

 相談会に訪れた人たちとともに、10月にも県と市に被爆者健康手帳の交付を求め、集団申請する。76歳以上と高齢になった被害者たちの中には、原爆投下当時は幼くて詳しい記憶がなく、事実を証言する家族も既にいない場合がある。文章を書いたり、系統立てて説明したりするのが難しい人もいる。一日も早い手帳交付を待つ人の多くが、申請書類の準備に困難を抱えている。

被爆者健康手帳の交付申請に必要な書類の一部

 ▽取材後記

 記者が平野さんに初めて会ったのは9月2日。自宅を訪れると「昔のことじゃけえ、もう覚えとらん」という。だが、耳元で大きな声で質問すると、原爆投下直後に見た光景を繰り返し話してくれた。「あれは見たもんにしか分からんよ」と何度もつぶやく姿から、これまでいくら訴えても聞いてもらえなかった過去を強く感じた。

 被爆者健康手帳の交付申請には、戸籍謄本に書かれた被爆当時の住所や家族構成、どのように黒い雨の影響を受けたかを詳しく書き、かかりつけ医などの診断書も必要だ。

 「これからが本当の戦いよね」。判決確定後に、訴訟の支援者が話していた言葉の意味を痛感した。

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