海老名にあるバス停「逆川(さかさがわ)」 名前の由来、調べてみた

「ここが逆川の跡」と道路脇の側溝を示す福井敦海老名ガイド協会会長=海老名市国分南

 史跡相模国分寺跡(海老名市国分南1丁目)のそばに「逆川(さかさがわ)」という変わった名前のバス停がある。近くの市郷土資料館によると、古代の運河の名残だという。相模国分寺跡が国の史跡に指定されて100周年に当たることから、同館では12月5日まで記念展示を開催中で、11月には国分寺跡や逆川の遺構を歩く文化財ガイドを開催予定。同館職員や地元に詳しい海老名ガイド協会に、「逆川」のいわれを聞いた。

 「逆川は、国分寺跡の東側を北から南へ流れる目久尻川から水を引いた運河。奈良時代に国分寺を建てる際に、瓦などを逆川の水運で運んだ」と同協会の福井敦会長は解説する。

 では、「逆川」という名前はどこからきたのだろうか。

 この周辺で最も大きな相模川も、他の川の多くも北から南へと流れる。「だが、逆川はいったん南へ流れた後で、北から延びる座間丘陵を回り込み、史跡相模国分寺跡方向へ向かって自然の川とは逆に南東から北西へ流れた。だから逆川と呼ばれた」と福井さんは説明する。

 座間丘陵を回り込む南端地点には「史跡逆川」の石碑が建つ。ここから、逆川の流路跡を福井会長の案内で歩くと、不思議なことに上り坂になる。水が坂を上れるはずがないが、石碑から5メートルほど高い尾根地形を乗り越さないと、国分寺跡付近にたどり着けない。この疑問は、市郷土資料館の押方みはる館長が解いてくれた。「逆川は地表から10メートルほど深いところまで掘り下げて、水を流したのでしょう」。

 逆川については国学院大教授を務めた樋口清之さんが1949年、学生とともに一部を発掘し「船着き場」のような跡が出土したといわれる。また、昭和40年代ごろまで、逆川の流れの名残を目にすることができたというが、現在は住宅開発や暗渠(あんきょ)化で、ほとんど見えない。ただ、相模国分寺跡近くの道路脇で福井会長は「ここだけが逆川の跡の水の流れが見える」と、草やぶに覆われそうな幅1メートルほどの側溝を指さした。

 さまざまな謎を残す逆川だが、地元の名所などを読み込んだ「海老名郷土かるた」には「(ん)運河では相模最古の逆川」と紹介されている。

◆6日から文化財ガイド
 同市では11月6日に計4回、国分寺跡や逆川関連遺構などを同ガイド協会員が案内する文化財ガイド「相模国分寺跡を巡る」を実施する。参加無料で各回先着25人。申し込み・問い合わせは、市教育委員会教育総務課文化財係電話046(235)4925。

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