特技は「モーレツ」、大家族は「ブタイ」 楽園の島、パラオに息づくユニークな“日本語”

パラオ南部にある「セブンティ・アイランド」

 日本から南に約3200キロ、西太平洋の島しょ国パラオはリゾートとして有名な「楽園」だ。使われるパラオ語には「モーレツ(猛烈)」「ブタイ(部隊)」など日本語としか思えない言葉があふれ、南部の州は日本語を公用語の一つにさえしている。日本がかつて統治していた名残だ。太平洋戦争では戦場となり、多数の死者を出した。戦後、日本語由来の言葉はユニークな進化を遂げ、モーレツは「何かがとても得意なこと」の意味になり、ブタイは「子だくさんの大家族」となった。戦争の悲劇を経験してもなお親日的なパラオが今、注目を集めている。(共同通信=岩橋拓郎)

 ▽演歌がおはこの人々

 「パラオでラジオを聴いていると、地元の人が歌う日本の演歌が流れてくるんです。パラオの人はうどんも刺し身も好きですし、今でも日本が息づいています」

 9月まで在パラオ日本大使館で1等書記官を務めた荻野毅さん(現在外務本省勤務)が振り返る。2019年10月に大使館のツイッターを始め、日本とパラオの2国間関係や大使館の行事に関する情報を、主に日本人向けに発信してきた。

 地道に書き込みを続けていたが、今年4月、パラオ語のユニークさを紹介したところ「クリーンヒット」。7月にはフォロワーが4万を突破し、アカウントを持つ日本の全在外公館の中でトップに躍り出た。パラオのメディアにも取り上げられた。

ユーチューブにアップされた日本語由来のパラオ語を紹介する動画

 ▽ビールで疲れ治す

 日本は1914年にパラオを占領、20~45年に委任統治した経緯があり、今も多くの日本語が現地に溶け込んでいる。荻野さんによると、日本語由来の言葉は千に上る。

 たとえば「ショートツ(衝突)」はジョッキがぶつかり合うイメージからか「乾杯」の意味で使われ、「ツカレナオス(疲れ治す)」は「ビールを飲む」に進化した。パラオでは夕暮れ時になると、地元の男性たちが路上や飲食店でツカレナオス姿をよく見かける。飲みすぎて「アバレル(暴れる)」人もたまにいるらしい。

 では「チチバンド」の意味は?

 ご想像通り「ブラジャー」。時代を感じさせるものも多く、ハンガーは「エモンカケ(衣紋掛け)」と呼ばれ、ボランティア活動は「キンローホォシ(勤労奉仕)」と表現される。日本語と同義の「ベントウ(弁当)」も試してみたい。「アジダイジョウブ(味、大丈夫)」=「おいしい」と言えば、お店の人も喜んでくれるに違いない。

 ▽ユーチューブに大統領も登場

 大使館のツイッターでは「倉庫はパラオ語でもソーコ」といった言葉の豆知識のほか、パラオの食べ物や日本にゆかりのある建物など、さまざまな話題を取り上げている。

在パラオ日本大使館のツイッター

 https://twitter.com/ofpalau

 在勤中にパラオのとりこになった荻野さんは、週末も欠かさずツイッターに投稿してきた。「親日的なんですが、親日を超えて日本そのものを感じることもある。言語、食文化、音楽などの共通性が親日に影響しているはずで、ツイッターを通して両国の特別な関係を知ってほしい」

 地元の人たちやレメンゲサウ大統領、河野太郎外相(いずれも当時)に出演してもらい、日本語由来のパラオ語を現地の風景とともに紹介する動画も制作、ユーチューブで公開している。

https://www.youtube.com/watch?v=E-EakUrYNDw

 ▽旧日本兵1万人が亡くなった島

 真っ青な空と海、気候も国民性も穏やか、魚介類は美味で「この世の楽園」とも言えるパラオだが、戦争中は南部ペリリュー島が日本から「太平洋の防波堤」と位置付けられた。1944年9月に米軍が上陸し、2カ月半近くにわたる戦闘で日本側は1万人余りが死亡。米軍の死者も約1600人に上った。

 生き残った日本兵の一部は洞窟やジャングルで潜伏を続け、終戦後の47年4月に生還したのはわずか34人。うち最後まで存命だった茨城県茨城町の永井敬司さんが2019年11月、98歳で亡くなった。

2015年に訪れたパラオ・ペリリュー島で拝礼された当時の天皇、皇后両陛下

 戦後70年を迎えた15年4月、当時の天皇、皇后両陛下は戦没者慰霊の旅の一環としてパラオを訪れている。1泊2日の強行日程で、ヘリコプターでペリリュー島に渡り、慰霊碑に深々と頭を下げた。天皇陛下は島民に「戦争はありましたが、平和なペリリューはきれいなところですね」と語ったという。

 激戦の舞台とされながら、なぜパラオの人々は親日的なのか。荻野さんは、日本統治時代に教育やインフラ整備を通して経済発展したことに加え、日系人の多さや、南部アンガウル州が州憲法でパラオ語、英語の他に日本語を公用語にしているといった点を挙げ、「『日本に対する身近さ』が親日につながっていることは間違いない」と指摘した。

 日常的に使われる言葉を知ることで、南洋の小さな楽園が経験した激動の時代とその後の平和に思いをはせられるかもしれない。

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