八神純子「想い出のスクリーン」:スージー鈴木の「OSAKA TEENAGE BLUE 1980」vol.4  1979年 2月5日 八神純子のシングル「想い出のスクリーン」がリリース

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■ 八神純子『想い出のスクリーン』
作詞:三浦徳子
作曲:八神純子
編曲:大村雅朗
発売:1979年2月5日

1979年、電話番号のないクラス連絡網

1979年春、僕は中1になった。クラスの連絡網が作られた。連絡網とは、クラスメイトの電話番号を、担任から始まる樹形図のようにつないだもので、要するに、緊急時などの情報連絡網である。

その連絡網、僕の名前の下には、彼の名前が書かれていた。しかし、彼の名前の下に電話番号はなかった。連絡網の不備ではない。彼の家には電話がなかったのだ。

これだけ携帯電話が普及した令和の今、固定電話のない家も増えているらしいが、1979年の大阪にも、固定電話のない家があったのだ。生き方や信条の問題ではなく、その多くは、言葉を選ばずに言えば、ちょっと貧しい家庭。

僕の家の近所にあるアパートの6畳間に、彼は父1人子1人で住んでいた。緊急の情報を伝えたり、回覧するプリントを渡したりするために、僕はしばしば、その部屋に向かった。

母親がいない事情など、彼に直接、面と向かって聞かないのが、当時の大阪の街っ子流だ。しかし、面と向かって聞かずに、周りでヒソヒソと噂するのも、当時の大阪の街っ子流だ。

でも彼については、確度の高い噂は流れてこなかった。だから僕も、彼について、余計な憶測や詮索などしなかった。

部屋のドアを開けると、向こう側に、彼のお父さんが寝ていた。その手前にちゃぶ台があって、彼がカップラーメンを食べていた。

僕と彼は、同じ小学校に通っていたのだが、お父さんは、当時からちょっとした有名人だった。もちろんいい意味でのそれではない。

ボサボサの頭に、明らかに着古されてくすんだ大きめのコート。こちらも言葉を選ばずに言えば、ホームレス(当時はもっとあからさまな表現を使ったが、ここでは後年に浸透したこの言葉で代用する)のような格好で、運動会などに顔を出す。

彼はスポーツ万能で、リレーの選手などに選ばれて目立っていた。息子の活躍に目を細めて喜びながら、彼の出番が終わると、いつの間にか姿を消す。そんな存在だった。

「あいつのお父さん、また来てるで。キッタナイなぁ」

彼のいないところで、こういうことを、ヒソヒソと言い合うのが当時の大阪の街っ子流―― 大阪の街っ子は、とても残酷だった。

ラジオから流れた八神純子「想い出のスクリーン」

プリントを渡して帰ろうとすると、部屋のラジオから、ある曲が流れてきた。電話だけではなくテレビも無い部屋だったので、ずっとラジオを流しているようだった。

――「♪愛しているのなら 愛していると 言葉にすればよかった」

「この曲、気に入ってるねん」

彼は言った。前年の1978年に『みずいろの雨』でブレイクした八神純子のシングル『想い出のスクリーン』だ。僕が小6だった2月に発売されて、中1になった今でも、よくラジオでかかっている。

特に「♪愛しているのなら~」のサビがよかった。また演奏も、『みずいろの雨』の続編のようなノリノリのリズム感が心地よい。特にエンディングのギターと、バックのリズムが最高。「松原正樹」や「大村雅朗」なんて固有名詞は、当時まったく知らなかったけれど。

「あぁ、八神純子『想い出のスクリーン』やな。ええ曲やなぁ」 「『オモイデノスクリーン』ちゅうんや。へぇ。そんで『スクリーン』って何や?」 「あぁ、よう知らんけど、映画のことちゃうかなぁ」

「松原正樹」や「大村雅朗」という固有名詞は言うまでもなく、「スクリーン」という一般名詞についても判然としない少年たちが、1979年のニューミュージックブームを支えている。

「この曲な、俺、ラジオで流れたんを録音したんで、今度カセットテープ持ってきたるわ」

ラジオを聞きながら、気になった曲があると、途中からでもどんどん録音するという奇妙な習慣を始めていた僕には、そんなテープが山ほどあった。彼に貸してあげよう。

翌日、彼にカセットテープを渡した。分かりやすいように、『想い出のスクリーン』が始まるところで、テープを止めておいた。

「おぉ、ありがとう。はよ聴きたいなぁ」

と彼は言った。しかし、その言い方には、彼らしい元気がなかった。僕は、それがちょっとだけ気になった。

突然この街から去っていった彼、良かれと思って貸したカセットテープ

翌日から彼は学校に来なくなった。

「知ってるか、あいつの家、夜逃げしたらしいで」

大阪の街っ子たちが噂し始めた。彼はもういないのだから、ヒソヒソではなく、ワイワイと噂が広がっていく。1週間ほどして、担任が正式に、彼が転校することを発表した。それでも転校先については口をつぐんだ。

中1になってまだ数ヶ月のことだ。それでも僕は、小学校のころから彼を知っていて、最近は、連絡網のおかげで、しばしば彼の部屋に行って、八神純子の話をした関係なんだ。やっぱり余計な詮索や憶測はやめておこう。

でも、あのカセットテープはどうしたんだろう。それが気になった。あのカセットテープには、他にもいい曲がたくさん入っているんだ。あれを無くすのだけは困る――。

学校の帰り道、僕は彼の部屋を訪ねることにした。もちろん、もぬけの殻だったが、部屋の奥、彼のお父さんが寝ていたところに、古ぼけた本棚があり、その上に、引越し時に残していったがらくたが、まとめて置かれていた。

そこに、僕のカセットテープが残っていた。しかしテープの位置は、『想い出のスクリーン』が始まるところのままだった。

僕は「あっ」と思った――「もしかしたらあいつ、ラジカセ持ってへんかったんとちゃうか?」

ということは、もしかしたら僕は、ちょっと悪いことをしたのかもしれない。良かれと思って貸したカセットテープが、彼が抑えよう抑えようとしていた、劣等感に火をつけてしまったのかもしれない。

切なく繰り返されるサビ「言葉にすればよかった」

「おぉ、ありがとう。はよ聴きたいなぁ」と言ったとき、果たして彼は、何を考えていたのか。

僕は、自分の家に戻って、そのカセットテープを聴いた。ちょうどの位置から『想い出のスクリーン』が始まった。

――「♪愛しているのなら 愛していると 言葉にすればよかった」

それを聴きながら、僕はちょっと切なくなった。その後の人生で僕は、音楽を聴いて何度も何度も切なくなるのだが、多分そのときが最初だったと思う。

もし本当に夜逃げだったとして、あのお父さんと一緒に、部屋を出ていくとき、彼は何を考えていたのだろう。どんな気持ちだったんだろう。

サビが繰り返される。僕も彼も大好きだったサビが。

――「♪言葉にすればよかった」

言葉にしてくれればよかったのに、考えや気持ちを―― と思うと、また切なくなった。

カタリベ: スージー鈴木

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