日本はなぜ太平洋戦争を始めたのか? 本質に迫る「海軍反省会 400時間の証言」 NHKスペシャル(2009年) [ 調査報道アーカイブス No.60 ]

◆秘密裏の会合「海軍反省会」の存在を突き止める

大日本帝国海軍(旧日本海軍)は1941年の12月8日、ハワイの米太平洋艦隊を奇襲攻撃した。対中国との戦争だけでなく、米英も敵とし、アジア全域での全面的な戦争を始めたのである。あれから、きょう2021年12月8日でちょうど80年になる。これまで多くの研究者や歴史家、ジャーナリストが「日本はなぜ対米英戦争を始めたか」の解明に取り組んできた。NHKスペシャルの「日本海軍 400時間の証言」はその大きな成果の一つだ。

太平洋戦争開戦の鍵を握っていたのは旧海軍の「軍令部」である。作戦立案・指導に関して絶対的な権力を持った軍令部は、どのようにして戦争を始め、進めたのか。必ずしも全容が明らかになっていない中、NHKの取材班は「海軍反省会」とその会議録の存在を突き止める。この「反省会」は戦後35年が経過した1980年から11年間、軍令部の構成員だった者が中心となって秘密に集まっていた会合である。

彼らは当時、すでに70~80代。生存中は絶対に非公開を貫くことを条件として、開戦に至る経緯、政界・皇族・陸軍への工作などの実態を都合約400時間にわたって仲間内で語っていた。戦争を避けるべきだと考えながら、組織に生きる人間として「戦争回避」とは言い出せなくなっていく空気までをも生々しく伝えている。

◆130回超、225本の録音テープ

取材を担当したNHKの右田千代エグゼクティブ・ディレクターは『特ダネの記憶 NHKスペシャル「日本海軍400時間の証言」(月刊『Jornalism』2021年7月号)でこう書いている。

本来、歴史の闇に葬られていた資料であった。それは「なぜ太平洋戦争を始めたのか」、そして「なぜ負けたのか」を語り合ったある会議の録音テープと議事録である。

この会議を特別なものとしているのは、参加者の多くが戦争を遂行した当事者であり、責任の一端を負う立場にある者たちだったからだ。つまり、日本人だけでも310万人が犠牲となった戦争について、自らの過ちを問い、責任に向き合う会議であった。

彼らは、その中で、知ることを包み隠さず語ることを互いに課していた。だからこそ、そこで語られる内容は「門外不出」と決められていた。

月に1回のペースで、彼ら以外の誰にも知られることなく、粛々と会議は続き、歳月の経過とともに参加者が高齢化する中、130回を超えて以降、記録は途絶えた。そして、全ての会話を記録した音声テープ225本と膨大な資料が残った。
参加者同士の約束事として、発言者が存命中は封印されるはずだった。しかし、そこには現代との接点となる人物がたまたま関わっていた。この「人の縁」が、時代を超えて、資料を伝えていくことになる。

日本軍の奇襲を受けた米戦艦「アリゾナ」(出典:米公文書館)

◆「なぜ戦争を始めたのか。どうしても分からない」

取材班がテープを確認した時点では、会議が終わってから15年の歳月が流れていた。取材のきっかけは、昭和館(東京)の図書情報部長・戸髙一成氏との定期的な勉強会だったという。戸髙氏は旧海軍の幹部から直接聞いた話として、次のような事柄を取材班に伝える。

「特攻隊員を送り出す時、上官は必ずこう言ったそうだ。『必ず自分も後から行くから』。その約束を本当に守って死んだ幹部はほとんどいなかった」
「攻撃が実施されず、生きて帰ってきた特攻隊員に、『なんで死んでこなかった。特攻の目的は死ぬことにある』と罵倒した上官もいた」

なぜ、戦争を始めてしまったのか、その理由がどうしてもわからないと戸髙氏は繰り返す。そして戸髙氏を起点に細い糸を手繰るようにして、取材班は「反省会」の会議録に行き着いた。その取材プロセスは書籍版に詳しいが、奇跡に近いような出来事の連続である。そして元将校らの協力も得ながら、取材班は「反省会」の全貌をつかんでいく。そして幾人かのキーパーソンは取材後や放送後、あまり間を置かずして他界した。遺族の1人は「もう少し取材が早ければ本人は口をつぐんでいただろうし、もう少し遅ければ死に間に合わなかった」という趣旨を語った。その意味でこの特ダネ取材は、ここしかないというタイミングで行われたのだった。

「海軍反省会」の録音テープ(NHK放送史のサイトから)

◆「やましき沈黙」には陥らない

3回の番組要旨は、次のようにまとめられている。

▽第1回「開戦 海軍あって国家なし」

天皇に直属する統帥機関として、作戦の計画・立案を担当する軍令部。戦時中の大本営海軍部である。反省会には、中枢の部署「軍令部第一部第一課」、通称「作戦課」の元参謀たちが、多く参加していた。「自存自衛」のためとされた戦争が、陸軍への対抗などから、客観的な情勢判断も乏しいままに、進められていった実態を語る。

さらに、国防の危機を唱えて予算を獲得するために、開戦前にアメリカとの対立を深めていった事実を明かした。国防を担うエリート中のエリートたちは、組織拡大と、目の前の仕事に汲々としていた。

反省会に参加した元大佐は言うー「陸海軍あるを知って、国あるを忘れていた」

▽第2回「特攻 やましき沈黙」

敵艦に体当たりをする「特攻」。これまで現場の兵士たちの志願によるということのみが語られてきたが、「反省会」の中で、それは海軍の幹部によって、考え出された作戦だったことが明らかにされる。最初の特攻とされる「神風特別攻撃隊」より前に海軍幹部によって、水中特攻や航空特攻の兵器が開発され、組織として作戦がつくられていった。そして最初の「神風」は、海軍幹部によって士気高揚のために利用されていた。

こうした事実を幹部たちは共有しながら、特攻という異常な作戦を批判したり中止させたりする行動をとることはなかった。「間違っていると思っても自分の意見は口にせず、そうした空気にのみ込まれて、流されていった」。海軍上層部は「やましき沈黙」にとらわれていたと、幹部のひとりは戦後言い残している。

▽第3回「戦犯裁判 第二の戦争」

日本人だけでも310万人もの犠牲を招いた敗戦。しかし、戦争を指導した海軍幹部は、戦後も組織防衛を最優先する。

中心だった軍令部のメンバーの多くは、第二復員省に移り、連合国による戦犯裁判に万全の準備で備えた。事実を隠し、組織を挙げて裁判対策を実行していった。さらに、天皇制の維持など占領政策を円滑に進めたいGHQに積極的に協力し、組織防衛を図っていた。その結果、陸軍上層部と異なり、海軍上層部はA級戦犯として終身刑(後に釈放)を言い渡されたものの、極刑を免れた。

一方で、現場の司令官にはその責任がおわされ、BC級戦犯として処刑されていった。こうした戦略の結果、多くの事実が表に出ることなく、闇に埋もれていった。そして「海軍善玉説」が一般に流布されていった。

かつての戦争について語る時、無謀な陸軍に比して海軍はそうではなかったとの受け止めもあった。しかし、そんなことはない。「海軍反省会」はその事実を余す所なく示している。

「海軍反省会」に参加していた扇一登・元大佐は戦後、家族に「海軍は、やましき沈黙に陥っていた」と語っていたという。その言葉を受け、右田エグゼクティブ・ディレクターは前掲『特ダネの記憶』の中で、「たとえどんなにやむを得ない事情があろうとも、一人ひとりの命に関わることについては、決して「やましき沈黙」をするまい」と胸に刻んだと記している。

では、「それだけはするまい」は他の取材者や他のメディアに十分浸透してるのだろうか。社会のあらゆる事象や歴史を検証し、それを広く市民に伝える任を負ったメディアは「やましき沈黙」に陥ることはないのだろうか。

(フロントラインプレス・高田昌幸

■参考URL
NHKスペシャル『日本海軍 400時間の証言』(NHKオンデマンドで視聴可能)
『NHKスペシャル 日本海軍 400時間の証言』(DVD)
文庫本『日本海軍 400時間の証言』(NHKスペシャル取材班)

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