cali≠gari - Key Person 第20回 -

L→R 村井研次郎(Ba)、石井秀仁(Vo&Gu)、桜井 青(Gu&Vo)

このメンバー以外での cali≠gariはあり得ない

J-ROCK&POPの礎を築き、今なおシーンを牽引し続けているアーティストにスポットを当てる企画『Key Person』。第20回目はパンク、ロック、ニューウェイブ、ジャズなどの音楽性を取り交ぜ、華やかなライヴパフォーマンスでビジュアル系シーンを揺るがし続けるcali≠gariを直撃。第8期にわたるまでメンバーチェンジを乗り越えた彼らは、今の自分たちをどう感じているのか?

cali≠gari

カリガリ:1993 年結成。現在のメンバーは石井秀仁(Vo)、桜井青(Gu)、村井研次郎(Ba)。メジャーデビューは2002 年、ビクター内のガイレコーズより。約1 年後の2003 年、日比谷野外音楽堂でのワンマンライヴをもって無期限活動休止。その後、2009 年に消費期限付き(期間限定)で復活。これまたビクター内のフライングスターレコーズよりリリース。この復活期は、シングル・アルバムセールスともに自己ベストを更新。ワンマンライブも日本武道館を完売するなど、復活前のスケールを大きく超えることになった。期限付きでありながら活動は続き、2012 年に「活動休止の休止」を宣言。しかし『ただいまインディーズぅ?さよなら、ビクターぁ?』と銘打ったツアーを行い、活動をメジャーからインディーズに移す。以降、ドラムが抜け現体制になり今にいたる。メジャー復帰10 周年の2019 年、7 年ぶり3 度目となるビクター復帰。2021 年12月、ニューアルバム『15』をリリース。

ノイズもパンクもごった煮にした 音楽がやりたかった

──まずは1993年から2000年5月にわたるcali≠gariの第1期~6期についておうかがいしたいのですが、結成された93年頃のビジュアル系シーンをどう思っていましたか?

桜井
怖かったです。喧嘩に強いか、酒が強くないと生きていけないシーンでした。居酒屋なんてすぐ出禁になるし、めちゃくちゃな時代でしたよ。

──それでもバンドを組むことに決めたんですよね。

桜井
やりたかったです。僕はヤンキーじゃないけど、ヤンキー漫画が大好きで族に憧れていたんですよ。でも、自分はあの中では生きていけないし、族を抜ける時に爪剝がされるとか耐えられないなと(笑)。なので、音楽の世界だったら多少の理不尽があっても耐えられるかもしれないと小さな勇気を持って。

──その当時のロックって、何か主張したいことがある人がやっている音楽というイメージがあります。

桜井
分かりますよ、実際にそうでした。自分もそうだったけど、たいして分かっていないのに主張しているんですよ。ふた言目にはアナーキストだ、無政府主義だって。日本でそう言っても意味がないし、今思うと自分ってバカだったなと思います。

──青かった時代というか。

桜井
真っ青ですよね。ちょうど最近アナーキストの歴史を調べていて、アナーキストマークの成り立ちとか、なぜそういうものが出来上がったのか、どうして無政府主義だったのかを本で読んだんですけど、パンクとかポップカルチャーにも使われるようになってから、70年代の中盤時点でそういったものがまったく意味をなさなくなったと書いてあるのに、90年代の日本は必死に主張していたんです。こんなお笑いないですよ(笑)。さぞかしロンドンの本物から見たら、日本ってサブかっただろうって。

──主張することへの意味よりも、憧れが強かったんですかね。そんな音楽シーンの中でcali≠gari は93年9月11日に池袋CYBERで初ライヴをしますが、この時のことは覚えていますか?

桜井
ヴォーカル不在のまま始まったので、最初のヴォーカルはサポートなんです。cali≠gariもいろいろあったバンドだけど、この時からもうすでにヤバくて。最初は『FOOL'S MATE』っていう当時の音楽雑誌にあったメンバー募集のコーナーで知り合ったベースと曲を書いていて、そしたらその人が“ライヴを入れたから!”と、あとさき考えないで決めちゃったんですよ。それであとからメンバーを探したんですけど、ドラムは高校のツレを誘って、ヴォーカルはそのベースが見つけてくれたんだけど、いざ会ってみたら清春のコスプレで(笑)。普段から紫色のダブルのスーツにバンダナを撒いてるんですよ。まぁ、全身軍服を着てる自分もダメだったけど(笑)。今思うと、あの当時はいろんな意味で狂っていたと思います。ビジュアル系のバンドマンってみんなどっか尖っていて面白かったですね。

──初ライヴに向けてドタバタでバンドが始まったわけですが、“こういうバンドがしたい”というイメージは桜井さんの中にあったんですか?

桜井
当時のビジュアル系には“ツタツタ系”って言葉があったんですよ。そこらへんのインディーズショップでデモテープを買うと、だいたいツタツタツタツタバンバンバンバンの繰り返しで、いわゆる“〇〇みたいなバンド”ばっかりでしたね。それを見ながら“そうじゃないんだよなぁ”と。ビジュアル系の洗礼も受けながら、ノイズもパンクもごった煮にした音楽がやりたいと思っていました。

──流行りとはまったく違ったんですね。

桜井
初ライヴの最初にやった曲が「禁色」(1997年10月発表のオムニバスアルバム『forbidden Pleasure volume 1』収録曲)で、お客さんはポカーンでしたよ。初めて観るバンドで、いきなりタンゴ風の拍子が入れ替わる曲から始まって、その次にはジャズっぽい曲もやっていたので。

初めてCD音源を出してから バンド状況がものすごく変わった

──村井さんは96年10月に四代目のベースとして加入されるわけですが、その時の想いというのは?

村井
僕はcali≠gariに入るまでビジュアル系を知らなかったし、化粧もしたことがなくてまったくの部外者だったので、大学じゃない外の世界でバンドがやりたいという気持ちだけだったんですよね。でも、加入してからライヴハウスに行くと髪が赤い人とか、変な格好していたり、叫んでる人もいて、“どうしてそんなことで怒ってるのかな?”と思うこともあったし、みんな時間は守らないし、酒癖は悪いしで、“世の中にこういう人もいるんだなぁ”って。周りが危なかっただけでcali≠gariはそういうのがなかったから、そこには染まらないように頑張ろうと思っていました。

──cali≠gariは自分が持っているエネルギーを人に発散するんじゃなくて、黙々と音楽に向けているバンドだったんですね。村井さん加入後には初のワンマンライヴを新宿LOFTで行なっています。

桜井
それまでに新宿LOFTでイベントをやっていたから、お客さんが来てくれたと思います。チケットは完売で、結局全員入りきらなくて階段で終わっちゃった人もいたみたいでした。

──すごい勢いですね。99年12月にワンマンツアー『夢見る分裂少年の妄想仕掛けな無差別テロ』を開催されますが、2000年6月にはヴォーカリストがミニアルバムのレコーディングの一週間前に脱退という。この激動の7年間ってどんな感覚でしたか?

桜井
変化がかなりありましたね。僕は30歳より前にはバンドを辞めようと思っていたんですよ。どうしてもデザイナーになりたかったし、入りたい事務所も29歳までの募集だったので、それまでに決めるしかないと。でも、その決意をやめるきっかけになったのが『第3実験室』(1998年6月発表)というアルバムで初めてCDを出した時に、今までのデモテープにはなかった確実な手応えがあったんです。それまでもお客さんは増えてくれていたけど、だいたい30人前後でノルマは払わなくて済むくらいだったのが、CDを出してから信じられないほどお客さんが増えていったんです。その頃のホームグラウンドは本八幡のRoute Fourteenだったので、“千葉でこの人数なら都内だと3倍は入るよ”とよく言われていたんですけど、本当に同じことが起こってしまって。あの時は嬉しいよりも“えっ!?”って感じでした。それまでは“君たちはビジュアル系じゃないから”って見向きもしてくれなかった雑誌からも“ぜひうちでお願いします”と手のひらを反すように連絡があったり(笑)、バンドの状況がものすごく変わった時期でした。

面白おかしくやって、 気がついたら20年が経っていた

──続いて石井さんが加入された2000年6月からの第7期~現在の8期に至るまでをおうかがいしますが、メンバーチェンジがありながらも予定していたレコーディングを続行し、2000年7月にミニアルバム『ブルーフィルム』をリリースしていますね。

桜井
前のドラマーから石井さんを入れるって話を聞いた時、僕は反対気味だったんですよ。それまでにもつき合いがあったし、普通にファンでいたかったから。

石井
バンドをダメにしちゃう人間ですしね(笑)。

桜井
でも、うちの曲を歌ってもらったら“もうこの人しかいない!”となり、これでダメならダメでいいやって思ったんですよね。

石井
『ブルーフィルム』は加入した翌週くらいにレコーディングだったかな? もともと友達だった前のドラマーの人から連絡があって、その時に偶然cali≠gariが出てる雑誌を読んでいたんですよ。それも音楽誌じゃなくてファッション誌みたいなものだったから、本当にたまたま開いていただけで、そのバンドから“ヴォーカルが抜けるから入ってくれないか?”なんて話はそうそうないじゃないですか。しかも、抜ける前のヴォーカルも俺と同じ名前なんですよ。その方は本名ではなかったけど、俺は本物だし…って、それは冗談で(笑)。その時は読んでいた雑誌のことも名前も意識していなかったけど、今考えると普通じゃない感じはあったと思うんですよね。さっき青さんが言ってたような、まだお客さんが全然いない初期の頃のcali≠gariを観ていたし、一緒に対バンしたり、デモテープをもらったこともあったし。それからあれよあれよという感じで、現在に至るって感じです。

──偶然も重なっていますが、実際に加入してフィットした感じはありましたか?

石井
あったんでしょうね。それまでに自分が好きでやっていた音楽とは全然違ったから、知り合いのバンドマンたちには“本気ですか!?”と言われたり、批判的な意見がすごく多かったんですよ。でも、自分的には意外と力を発揮できる場所かもしれないなと。ずっとうまくいっていなかったし、若さもあったし、さっき言ったようにバンドを壊してしまう立場ではあったんですけど、cali≠gariでは面白おかしくやって、気がついたら20年が経っていました。

村井
石井さんが入ってからちゃんと音楽ができるようになったというか…それまではフワッとしていたところがあったんですけど、ちゃんとバンドをやろうと思うようになりましたね。音楽の話をするようになったんですよ。

桜井
音の話って、ぶっちゃけ研次郎くんしかできなかったんです。僕はリスナーとしての耳しかないから、作っていく時の理論を知らなくて。でも、石井さんが入ったことで音に詳しい人がふたりになったから破綻しないというか。“破綻していてもカッコ良いじゃん”と分かっていて破綻しているのと、分かっていなくて破綻しているのはすごく違うってことを教わりました(笑)。

──これだけ編成が変わると音楽性にもたびたび変化が出るわけですが、『ブルーフィルム』は2020年9月にリバイバル版もリリースされていて、バンドがピンチな状態で制作されたアルバムながらも、20年の時を経ても再録できるcali≠gariにとって大切な一枚なのかなと。

桜井
これを言ってしまうと、人によっては“えっ?”ってなるかもしれないですけど、自分にとっては『ブルーフィルム』からがcali≠gariだと…いろんな意味でね。ヴォーカルが違うってことは全然違うバンドなので、その前を否定してるわけじゃないんですけど、石井さんより前のcali≠gariと、石井さんよりあとのcali≠gariって別ものだと思っています。

3人とも恥ずかしい曲は 絶対に持ってこない

──バンドを始めた時と今で、変わったと思うことってありますか?

桜井
あんまりそういうことは考えないですね。曲を作る、お金を稼ぐっていうだけで小難しいことはあんまり考えていないんです。このメンバー以外でのcali≠gariはもうあり得ないし、入れ替わりもないと思っているから、“誰かが抜けたら終わり、以上!”ってくらいかな?

石井
やり方も特殊だし、急に他の人が入ってきたらこうはいかないでしょうね。

桜井
うちのバンドのやり方に対応できる人ってあんまりいないと思う。自己責任がすごいので、どんな曲を持ってきても“いいんじゃないですか?”で終わるんです。それは投げやりなんじゃなくて、それぞれ恥ずかしいものは絶対に出さないので、そこには確固たる自信みたいなものがありますね。

──それだけ認め合っているというか。

桜井
ダサい言い方をするとそうなりますよね(笑)。アツい表現でいいと思います。

──すみません(笑)。では、最後にみなさんそれぞれにとってのキーパーソンを教えてください。

石井
メンバーは3人ですけど、再結成したあとから長年やってもらっているレコーディングエンジニアの白石元久さん。ほぼ4人目のメンバーみたいな存在で、この方がいないと成り立たないです。人間的にも音楽制作に取り組む姿勢とか、対人関係にも影響を受けています。

村井
cali≠gari界隈だと同じく白石さんですね。cali≠gariの外だとCOALTAR OF THE DEEPERSのNARASAKIさん。ミュージシャンの方ですけど、心でベースを弾く、心で音楽をやるっていうことを学びました。上っ面にやるんじゃなくて、気持ちを曲や演奏にぶつける方なので、すごくいろんなものをもらっています。

桜井
良くも悪くも亡くなったマネージャーですかね。エンタメってすごく難しいというのを教わったかな? あとは、金勘定ですね(笑)。バンドをどうビジネスで展開していくのかっていうのを学びました。僕と同い年だったので、もうマネージャーというより山師のような人でしたね。本当にすごい人でしたよ。今も生きていたら、cali≠gariはまた違うところにいたのかもしれないと思います。

取材:千々和香苗

© JAPAN MUSIC NETWORK, Inc.