四半世紀前「児童虐待は犯罪」と言い切った連載『殺さないで』 毎日新聞社会部(1998年〜) [ 調査報道アーカイブス No.72 ]

イメージ(撮影:穐吉洋子)

◆「殺さないで」

毎日新聞社会部が「児童虐待取材班」をつくったのは、1998年9月だったという。連載『殺さないで 児童虐待という犯罪』は、翌10月から2001年11月にかけて続いた。さらに3年の時を経て2004年3〜4月に第10部を掲載。記事は合計で80本ほどを数えた。四半世紀近く前の連載でありながら、今読み返しても息が詰まりそうになる。子どもの叫び声が聞こえてきそうな、「殺さないで」というシリーズタイトル。文字を追うことがつらい。内容に古さを感じないのは、児童虐待の実態が大きく変化していないからかもしれない。

第1部の初回『裸で雪に埋め撮影』はこう始まる。掲載は1998年10月25日だった。

 午後8時前。気温は0度を下回り、一家が住むマンションの駐車場に雪が降り積もった。内縁の夫(30)は、ふろ上がりの「ター(忠将(ただまさ))くん」を裸のまま地面に寝かせ、足から胸まで雪をかけていく。「写真を撮ろうよ」。母親(34)はカメラを夫に渡し、泣かずに震えている長男の後ろでVサインをつくった。今年1月8日、埼玉県富士見市。2日後、外傷性ショックでわずか6年の命は消えた。小さな遺体は、太ももや腕を中心に全身にあざがあった。

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 肩まで垂れる茶髪を赤紫のゴムひもが彩る。傍聴席の父親を振り向く色白の顔は、幼い。長身の背を丸めた夫も自分の両親を見つけ、いたずらっぽく笑みを浮かべた。
 浦和地裁川越支部。傷害致死事件の法廷は、真夏を迎えるまでに5回の公判を重ねた。
検事「なんのために雪をかけたのか」
「自分の意見を押し通そうとするターくんに雪の冷たさを教えてあげようと思いました」
裁判長「写真を撮ろうと思ったのは」
「久しぶりの雪だったので」
 ぼそぼそと、聞き取りにくい夫とは対照的に、妻の声はよく響く。
 ふろに入れたターくんが約束の300を数えないで「外に出たい」と言ったのが発端だった。夫は雪に埋めた後、家に連れ帰り、今度は乳首など体の体の5、6カ所を洗濯バサミではさみ、そのまま夫婦でコンビニエンスストアに出かけた。
検事「どうして、そんなことをしたのか」
「一気飲みができなかった罰ゲームみたいなものです」
検事「なぜ止めなかったか」
「大したことじゃないと思っていました」

裁判所に提出された証拠には1枚の写真があった。裸のまま、首から下を雪にすっぽりと埋められたターくん。その横でVサインして笑う母親。撮影したのは内縁の夫である。

記事はこの後、保健婦が顔にあざをつくったターくんを生前に目撃しながら、児童相談所と協議の結果、家庭への立ち入りを避けていた事実などを綴っていく。

◆「お仕置き」という名のリンチ

続く2回目の『お仕置きの名でリンチ』もすさまじい。

5歳の男児は実の母を含む大人3人から虐待され、最後は「ぎゃー」という声を発して動かなくなる。後日の刑事裁判で、大人のうちの1人は「生活費を稼ぐため休みもなくキャバレーで働き、肉体的にも精神的にも次第に焦燥の度を強め、暴力がはけ口になった」と語った。その夫は「無為徒食の生活の中で、暴行を加えることが次第に快感になった」。この夫婦宅に身を寄せていた男児の実母は「居候の負い目に加え、カネもなく寄食するほか生きるすべがないとの思いから夫婦に迎合した」と法廷で証言した。

イメージ(撮影:穐吉洋子)

この連載が始まった頃、日本では虐待を「しつけの度が過ぎただけ」ととらえる人が多かった。「わが子をわざと虐待する親などいない」という考え方だ。当時の警察庁の犯罪統計には「せっかん死」はあっても、「児童虐待」「虐待死」の項目はなかった。新聞・テレビも今ほどこの問題を熱心に取材していない。報道されても、ベタ記事程度が普通だった。司法界も同様で、子どもを虐待死させた親の8割は懲役5年以下。執行猶予付き判決も珍しくなかった。要は「児童虐待は犯罪」ととらえる発想も仕組みもなかったのである。

◆ベタ記事の奥に隠れていた児童虐待の真実

取材班は連載に先立ち、1997年1月以降の1年10カ月間に起きた虐待事件を洗い出す。すると、全国で56人もの乳幼児・子どもが虐待で死亡していたことがわかった。ベタ記事の奥に隠れている一つ一つの事実こそを丹念に取材し、読者に示し、家庭の問題を社会化する必要があるのではないか。記者たちはそう考えた。第1部は6回。短めのシリーズだったが、手紙やファクスで届く反響は大きかった。「生まれて初めて新聞を読んで怒りを感じ、ショックを受けた」「かわいそうでもう読むのをやめようと思った」といった声が止まない。第1部の連載だけで、そうした声は200通を超えたという。

その声に後押しされるように連載は長く続くことになった。児童虐待防止法が国会で成立したのは、そうしたさなかの2000年5月である。

毎日新聞の連載

取材班の一員だった野沢和弘氏は連載から時を経た2014年、国家公務員向けの人権研修会でこう語っている。取材当時を振り返る内容だ。

私が最初に取材に向かったのは、3歳の男の子が三日三晩、実の母親を含む3人の大人からし烈な暴力を受けて亡くなったという非常に痛ましい事件でした。男の子はお母さんに向かって「もうお母さんこの家出て行こうよ」って、ひとこと言い残して息絶えたんです。

警察が報道に発表する時は三日三晩のうちのごく一部、象徴的なところだけを発表します。それが新聞記事になる時には、またその中から一部が記事になるので全体像が分からないんです。

裁判所に取材に行って、公判で検察官が三日三晩に起きた事を冒頭陳述で読み上げるのを,私は記者席でメモをずっと取っていました。メモを取りながら胃がよじれて口の中から飛び出してきそうな感覚を覚えました。そのぐらい凄まじい出来事だったんです。

ふと見ると、3人いる裁判官席の一番左の女性の判事の方がもう泣いて泣いて、なかなか裁判を続けられないような、そんな状況だったんです。このぐらい凄まじいことだったのかと衝撃を受けました。われわれがこれまで社会問題として見てこなかったところに、実は深刻なことが起きているのではないかと。

野沢氏をはじめとする記者たちは、警察発表やベタ記事の奥に隠れた事実を求めて、地方裁判所を訪ね歩いた。その法廷で展開された児童虐待の姿。それらを“家庭の枠”から取り出し、社会全体の問題にしていく作業は当時としては画期的であり、優れた調査報道だった。

あれから四半世紀。今も止まない虐待の数々は果たして、当時とどこがどう違っていたのだろうか。児童虐待防止法など法の仕組みもできた。報道も増え、人々の認識も大きく変わった。現在では、虐待や事故などによる子どもの死を未然に防ごうと、厚生労働省が主導して「チャイルド・デス・レビュー」を導入しようという動きも始まっている。それほど時代は変わった。しかし、もしかしたら、虐待そのものは何も変わっていないか、あるいは、さらにひどくなっているかもしれない。

政府広報から

(フロントラインプレス・高田昌幸)

■参考URL
単行本『殺さないで 児童虐待という犯罪』(毎日新聞・児童虐待取材班著)
SlowNews 連載『チャイルド・デス・レビュー 救えたはずの小さな命』(フロントラインプレス取材班)
「児童虐待防止策」(厚生労働省)

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