ユーラシア大陸自動車横断紀行 Vol.26 〜自動車に与えられた存在意義〜

いま、日本では世界各国のいろいろなクルマを選ぶことができる。予算に応じて、それこそ悩めるだけ悩めるし、その気になれば買いたいだけ買うことすら可能なほどに「豊か」である。それは素晴らしいことである反面、では何のためにクルマを必要としているのか。ロシアの大地をたくましく走るクルマたちを見て、そんな疑問も湧いた。
文:金子浩久/写真:田丸瑞穂
※本連載は2003〜2004年までMotor Magazine誌に掲載された連載の再録です。当時の雰囲気をお楽しみください。

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ユーラシア大陸自動車横断紀行 Vol.25 〜ロシアを走って感じた「ご当地事情」〜

ロシアと日本、ヨーロッパの各国が考える思惑とその現実の相違

先日、新聞の海外ニュース欄を読んでいて、ちょっと嬉しくなってしまった。5月19日に、ロシア各地で日本車オーナーたちが政府の「右ハンドル車規制案」に反対する抗議デモを行ったのだ。

右ハンドル車というのは、日本車、それも中古車としてロシアに輸入されたクルマのことだ。この連載でもたびたび触れてきたように、ロシアには多くの中古車が日本から輸入されている。壊れにくく、燃費に優れ、中古車として安く買えるから、日本車の人気はとても高い。

だから、極東ロシアを走る乗用車の99パーセントは日本車だ。西に行くにつれ、少しずつロシア車やヨーロッパ車が増えていくが、日本の中古車が人気で、需要は絶えない。

日本車の人気ぶりと、中古車の流通事情を体現しているのがブローカーの存在だ。僕らは、ロシア各地でロシア人の日本車中古車ブローカーに何人も会ったが、彼らは極東シベリアから、はるか西のエカテリンブルグやボルゴグラードなどまで、クルマを陸送していた。

クルマを買うということは中古車の購入とほぼ同義

ひとり目は、富山の伏木港からウラジオストクまで乗ったフェリー、「RUS」号で一緒だったイーゴリ。彼は、伏木港周辺にある中古車店で買ったトヨタ・ランドクルーザーの中古車を運んでいた。ものすごい飲ん兵衛だったが、酔っぱらっても行き先やランクルを売る相手、値段などをあまり話したがらなかった。もしかして、誰かビジネスパートナーがいて、口止めをされているのかもしれない。それがマフィアだったりしたら、なおさらだ。

大陸横断中のカルディナ

ふたり目は、ハバロフスクからずいぶん西へ進んだ、ユダヤ人自治州ビロビジャンの先の国道沿いの食堂で出会った髪の短い若い男。聞き慣れない名前の、北にある小さな町までカムリを運んで売るという。

「夏は、道が悪くて運転しにくいから嫌いだ。冬は、凍った河の上を走るから、走りやすいんだ」

この男には、数百キロ先のスコボロディノのガソリンスタンドの隣のカフェで再会した。西部劇映画で、流れ者同士が荒野のサルーンで“また、会ったナ”と挨拶を交わすような感じだ。

日本円にして約25万円で仕入れたカムリを「50万円で売れたらいい」と皮算用していた。

袖を切った白いTシャツに短パン、額にサングラスを載せた軽装で、飄々とした感じだったが、「途中まで一緒に走らないか」と何度も僕らを誘うあたりは、寂しがり屋だったのかもしれない。僕らが、スコボロディノからカルディナをシベリア鉄道に乗せて運ぶことにしたことを告げたら、残念そうな顔をしていた。

そのシベリア鉄道への積み込み場所にも、ブローカーはふたりいた。

ひとりは、ヒゲを生やした中年男のイーゴリ。4トントラックをボルゴグラードまで運ぶのだという。親切な男で、ルート全般についてやサンクトペテルブルグからのフェリーなどについて丁寧に教えてくれた。いつも、クルマを運んでロシアを横断しているから、知識と経験が豊富だった。彼のアドバイスが、スコボロディノからシュルカ間はカルディナをシベリア鉄道に乗せることを決定させた。

そのヒゲのイーゴリは別の列車にトラックを乗せて一足先に西へ出発したが、僕らと同じ列車に乗り合わせたブローカーは、読売ジャイアンツの高橋由伸似の青年だった。2トントラックの荷台に、ホイールを外して、導板に乗せたカローラごとコンテナに乗せた。両方とも、遠くの町まで運んで売るのだという。

何千キロも離れたところまで、中古車を、それも場合によっては自走してまで運んでも利益が出るということは、日本車が人気であると同時に、手頃な中古車が絶対的に不足していて、流通も整っていないことを示していた。

日本の中古車が人気だといっても、新車は別勘定だ。新車は、当然、右側通行のロシアに合わせ、左ハンドル仕様が輸入されているから、規制の対象とはなっていない。

これからの自動車市場として有望視されているだけに、ロシアには世界各国の自動車メーカーが進出している。もちろん、トヨタも積極的だ。

トヨタを始めとする日本車のディーラーは各都市に存在し、繁昌していた。だが、高価な新車を買えるのはごく限られた富裕層だけであり、それ以外の人々は中古車を求めることになる。だから、日本車に限らず、新車を購入することは特別なことで、“クルマを買う”ということは、普通は中古車の購入を意味している。ロシアでは、日本のように新車と中古車の価格が比較的接近し、供給も滞りなく行われているわけではないのだ。

クルマとは実際的なもの たくましく使われる存在

デモの目的は、政府が採ろうとする政策に対して抗議の意志をアピールすることだった。政策というのは、ロシアの産業エネルギー省が、国内の自動車産業育成と外国の自動車メーカーの工場進出を誘致するために、中古右ハンドル車の新規登録を認めないことと高額の課税を施そうとしたことだ。

関係閣僚がこの問題を討議する5月19日に合わせて、全国で抗議の意思表示のためにデモが行われたのだった。あんなに広い国土で、そして、日本や欧米ほどにはコミュニケーション事情が発達しているとは言えないロシアで、よくもうまくタイミングを合わせて各地でデモができたなと、ヘンな感心をしてしまった。

ロシア政府の関係閣僚会議で、ショイグ緊急事態大臣は「わざわざ騒ぎを起こすようなことをする必要はない」と、産業エネルギー省などに対して、慎重に対応するよう注文を付けたという。

それはいいとして、僕が嬉しくなってしまったのは、ロシアの人々が自分達の生活手段であるクルマが手に入れにくくなることに対して、ものすごく敏感だということだ。

僕たち日本人は世界中のいいクルマをたくさん買って、乗っているけど、クルマに対して、果たしてここまで切実になれるだろうか。

この、右ハンドル車規制に対するプロテストというのは今回が初めてのことではなく、僕らがロシアを走った2003年にも行われていた。まぁ、年中行事みたいなものである。

暮らしていくための足を奪われてはならぬ市民側と、スキあらば中古日本車を閉め出したい為政者側とのせめぎ合いという構図が、そこにはうかがわれる。でも、為政者側も真剣に中古右ハンドル車を閉め出そうと思っていないようなフシもうかがえるのだ。

なぜならば、本当に、中古日本車を閉め出してしまったら、国民の大きな自動車需要を満たすことはできないからだ。仮に、ヨーロッパ側から左ハンドルの中古車を輸入しようとしても、必要な台数が賄えるかどうかわからないし、賄えたところで東側に輸送しなければならない。

日本側からとヨーロッパ側から輸入している現在でも引く手あまたなのだから、一気に規制してしまっては、今度はデモどころでは済まないだろう。

ロシア人がロシアで暮らして行く上で、彼らにとってクルマとはいったい、何なのだろう。

それはもう、純粋に生活を支える道具以外の何ものでもない。A地点からB地点まで、人やモノを乗せて移動する。それ以上でもなければ、以下でもない。

A地点とB地点を結ぶ道路はあまり整っておらず、特に東半分では未舗装であることが多い。食料や燃料の確保、通勤のための交通手段といった、生きていくために避けて通れないことが、クルマに課せられた第一の役割となる。

1990年代頃からだろうか。日本の路上を走る古いクルマが見る見る減少していったのは。ロシアでは、そもそもクルマの絶対的な台数がまだ不足しているという理由もあって、丁寧に手入れされた古いモデルも元気に走っていた。だがそれも、経済状況が好転するに連れて、高価な新車が増えて、淘汰されていくのだろう。

「ソ連時代は、泥棒とか誘拐犯などの犯罪者はいなかったから、みんな気軽に道端に立って、ヒッチハイクしていましたよ。僕も、遠くのお婆ちゃんの家に行くのに、走ってきた全然知らないクルマに手を挙げて、ひとりで乗っていましたから」

通訳として同行してくれた留学生イーゴリ・チルコフさんは少年時代を思い出してくれた。

「父親は工場で働いていて、クルマを手に入れるのに、10年以上待たされました。申請をして、ずっと待たされるのです。資金が貯まるのを待っていたのではなく、許可が下りるのを待っていました」

そうしてやっとチルコフ家に来たのは、2ストロークエンジンをリアに積むザパロルツというロシアで最も小さな4人乗りセダンだった。

「そのザパロルツを大事に乗り続け、ずいぶん後に、次はジグリに換えました」

ジグリとは、フィアット125を当時のソ連でライセンス生産したもので、各種の4気筒エンジンを搭載したセダンだ。今でも、ロシアの西半分の路上ではとても多くの台数が走っている。

ハードな道路環境と気候条件をものともせず、かなりの長距離をロシアの人たちは走る。そのため、道路際でボンネットを開けて立ち往生しているクルマも少なくない。

実質的なクルマ選びが行われ、実際的にクルマが用いられている。どこかの国のように、“ブランド”だとか、“プレミアム”だなんて、誰も口にしない。そんな虚ろなものが存在する余地すら、いまのロシアにはないのだ。

みんなたくましくクルマに乗っている。デモ行進は、そんなロシア人中古日本車オーナーたちのささやかな抵抗なのだった。
(続く)

[ユーラシア大陸自動車横断紀行 Vol.26 (5)]

金子 浩久 | Hirohisa Kaneko
自動車ライター。1961年東京生まれ。このユーラシア横断紀行のような、海外自動車旅行を世界各地で行ってきている。初期の紀行文は『地球自動車旅行』(東京書籍)に収められており、以降は主なものを自身の ホームページ に採録。もうひとつのライフワークは『10年10万kmストーリー』で、単行本4冊(二玄社)にまとめられ、現在はnoteでの有料配信とMotor Magazine誌にて連載している。その他の著作に、『セナと日本人』『レクサスのジレンマ』『ニッポン・ミニ・ストーリー』『力説自動車』などがある。

田丸 瑞穂|Mizuho Tamaru
フォトグラファー。1965年広島県庄原市生まれ。スタジオでのスチルフォトをメインとして活動。ジュエリーなどの小物から航空機まで撮影対象は幅広い。また、クライミングで培った経験を生かし厳しい環境下でのアウトドア撮影も得意とする。この実体験から生まれたアウトドアで役立つカメラ携帯グッズの 製作販売 も実施。ライターの金子氏とはTopGear誌(香港版、台湾版)の 連載ページ を担当撮影をし6シーズン目に入る。

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