取材相手が次々と亡くなっていく……アスベスト被害者への重い取材 調査報道で救済に道筋 毎日新聞(2006年〜) [ 調査報道アーカイブス No.76 ]

◆「クボタショック」の出発点

アスベストは綿のようになっている鉱物で「石綿」とも呼ばれ、かつては断熱材や保温材、防音材として多用されてきた。吸引すると中皮腫や肺がんといった健康被害を引き起こすことが今では知られている。しかも潜伏期間が20~60年と極めて長く、中皮腫の致死率は非常に高い。現在は使用も輸入も禁止されている。

そうしたアスベストによる健康被害について、マスコミがほとんど取り上げてこなかった1995年ごろから問題意識を持って取材し、2005年6月にアスベスト被害を大きな社会問題とする大スクープを報じたのが毎日新聞の大島秀利記者である。大手機械メーカー「クボタ」の旧神崎工場(兵庫県尼崎市)の多数の社員がアスベスト被害特有の中皮腫を発症し、工場周辺の複数の住民にも被害が出ている事実を明らかにした。「クボタショック」と呼ばれるスクープだ。

アスベスト被害の情報公開と被害者救済に向けた一連の記事で、大島記者は2006年の科学ジャーナリスト賞、2008年の新聞協会賞を受賞している。取材の経緯は大島氏の著書『アスベスト 広がる被害』(岩波新書)などに詳しい。

大島氏はもともと原発問題に関心があっという。学生時代は「原発研究会」というサークルを立ち上げたほどだ。記者になって原発取材を進めるなかで、労災隠し、ダイオキシン、化学物質過敏症などにも関心を広げていく。そうした流れを大島氏は次のように表現している。

記者はまずリサーチをしなければいけません。アンテナを張って、ネタ探し、端緒探しをします。これが一番難しいのです。

私は、取材には「ゼロ段階」があると言っています。ゼロ段階とは、具体的なテーマに当たるわけではないけれど、ある知識をたくわえながら情報網、人脈、アンテナなどをつくることです。記事としてはゼロだけれど、取材活動の土壌・肥やしとして不可欠な段階です。

(書籍『「危機」と向き合うジャーナリズム』から)

厚生労働省・石綿総合情報ポータルサイトから

◆工場労働者だけでなく、周辺住民も「中皮腫」に

そうした活動を続けながら、大島氏は2004年夏頃、「クボタショック」報道につながる端緒をつかむ。アスベスト被害者を支援するNGOや患者団体を通じ、兵庫県尼崎市内に中皮腫を発症した複数の患者がいることを知った。いずれも、クボタの旧神崎工場周辺に居住歴がある。さらにNGO側は「クボタの社内に多くのアスベスト患者がいる」との情報を得ていた。

それだけではない。工場周辺に住むガソリンスタンド経営者や元証券マンら、クボタ関係者でない人々にも中皮腫患者がいたことも確認された。旧神崎工場は石綿水道管を製造していたため、NGO側はクボタの石綿が原因ではないかと疑っていたのである。

こうした事実をもとにNGOや患者団体は翌2005年3月以降、クボタ本社(大阪市)と交渉を重ねた。それに応じてクボタも企業責任を果たすための方策を探り始めた。大島氏はこうした動きの後を追い、関連の取材を進めていく。住民はもちろん、医師、クボタ関係者からの丹念な聞き取りを重ねた。

その結果、クボタのアスベスト関連疾患による死者が過去10年間で50人以上に達していた事実を突き止めた。クボタにその事実を突きつけると、「旧神崎工場周辺で中皮腫にかかった患者さんに見舞金などをお支払いすることを検討しています」という回答も得た。

取材の成果が実を結んだのは、2005年6月29日夕刊である。1面トップと社会面に、次のような見出しの記事が大きく掲載された。

「10年で51人死亡 アスベスト関連病で」「社員らを支援 クボタが開示」
「住民5人も中皮腫」「見舞金検討、2人は死亡 クボタ」
「他の企業も情報公開を」

他メディアも一斉にこの報道を追いかけ、「石綿」「アスベスト」「クボタ」「中皮腫」「救済」はこの問題のキーワードになっていく。その後、当初5人だった中皮腫の住民は2カ月後には新たに21人(18人は死亡)が加わった。クボタは旧神崎工場周辺に居住歴のある人を対象にした補償制度を設け、患者救済への扉を開いた。これが「クボタショック」の始まりである。

「クボタショック」などアスベスト被害に関する毎日新聞の報道

◆「苦しい」「痛い」…患者の苦しみにようやく救済の道

進行すると、中皮腫は激しい苦痛を患者に与える。多くの人が「苦しい」「痛い」と訴えながら、死に向かう。当時、石綿は、当たり前のように使用されていた。使用企業の裾野は広く、発症までには相当の年数もある。患者を補償するとなれば、その認定方法や範囲はどうなるのか。企業の社会的責任をあいまいにして許される時代ではなくなっていた。

一連のアスベスト報道は、政府・国会も動かしていく。労災補償の対象外となっていた一般住民や、時効で請求権を失った被害者のための「石綿健康被害救済法」が2006年2月に成立した。

しかし、問題はこれで終わらなかった。

厚生労働省は2005年夏、アスベスト関連疾患による労災認定の状況を公表し、04年度分として383カ所の事業所名を明らかにしていた。ところが、翌年、05年度分の公表をやめてしまったのだ。そこには、クボタショックで激増したはずの事業所情報が含まれている。「事業所名を公表すると労災認定の調査の協力が得られなくなる」というのが、厚労省の言い分だった。毎日新聞は強く批判したが、厚労省の姿勢は変わらない。

◆厚生労働省の“隠ぺい体質”に対抗 異例の5ページ特集

対抗策として患者団体は全国の労働局を対象に、労災認定に関する情報公開請求を実施した。開示された公文書では、事業所名などが黒塗りにされている。それを一つ一つ分析し、労基署の名前などから地域と事業所を推定。それをベースとして大島氏らが事業所に取材をかける。根気を要する、地道な作業の繰り返しである。

そうした努力が結実した紙面は、患者や支援者、報道機関の意地を見せつけるかのような展開だった。2007年12月3日朝刊。そこでなんと、5ページもの大特集が展開されたのだ。独自に割り出した520社の企業リストと業種名、疾病の数を列挙。情報公開に背を向け、アスベスト被害の発覚を遅らすかのような厚労省の姿勢についても指摘した。そして厚労省は結局、公表を拒んでいた事業所リストの国会提出に追い込まれた。

石綿を使った施工実例(環境省の資料から)

大島氏は2009年度、慶応義塾大学メディア・コミュニケーション研究所のジャーナリズム総合講座の授業で、当時の取材の重みを次のように振り返っている。

振り返れば「よくここまで追いかけてきたな」と自分でも感じますけど、実はそんなに意識的にやってきた気はしません。では、どうしてか。取材相手がどんどん亡くなっていくのです。クボタの周りに住んでいた人、ニチアスなどいろいろな石綿工場で働いていた患者……。「あの人が亡くなった」「この人も亡くなった」「遺族が悲しんでいる」という話を聞いて、「それなのに情報を閉ざすのか」「情報を出さないとはどういうことなのか」「この実態を放置するのか」と自問しました。義務感や使命感ではなくて、反射的に体が動いた。そんな感じがしました。

大切なことはいつも現場にあります。つまり、患者さんの病床で声を直接聞いたかどうか。あとは新聞の持つ力を活用して的確に情報を伝えること。厚労省や国がごまかしている点をゆっくり説いて、丹念な取材をしなければいけない。企業の取材もそうです。そうしたことを積み上げていけば、「これはだれがどう考えてもおかしい」ということを示せます。

「これはおかしい。それなのに放置されている」という問題にこそ、報道する価値があると思います。何がおかしいのか、何が正しいのかを考え、取材した結果に基づいて判断する。私の場合は「厚労省が情報を閉ざしたのは、どう考えてもおかしい」と原点に戻って自分に問いかけてきました。それが一番よかったと思っています。

(フロントラインプレス・本間誠也)

■参考URL
岩波新書『アスベスト 広がる被害』(大島秀利著)
単行本『「危機」と向き合うジャーナリズム』(早稲田大学出版部)

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