核議論するならまずはここから! 兼原信克・太田昌克・高見澤將林・番匠幸一郎『核兵器について、本音で話そう』(新潮新書) その昔、読書にかまけて羊を逃がしたものがいるという。転じて「読書亡羊」は「重要なことを忘れて、他のことに夢中になること」を指す四字熟語になった。だが時に仕事を放り出してでも、読むべき本がある。元月刊『Hanada』編集部員のライター・梶原がお送りする週末書評!

「核議論必要」が過半数を超える時代に

ロシアは戦術核を使うのか。アメリカの核の傘は機能するのか。現在進行中のウクライナ情勢は、日本の安全保障環境への関心はもちろん、核に関してもさまざまな議論を呼び覚ましている。

安倍元総理がテレビ番組で「核共有の議論をすべき」と述べたのに始まり、世論調査でも「核共有を議論する必要がある」と答えた人が5割を超えるなど(ANN調査)、かつてなく核への関心が高まっている。まさに、タイトル通り『核兵器について、本音で話そう』という機運が高まっているのだ。

本書は、元外務官僚で国家安全保障局次長を務めた兼原信克氏、軍縮会議日本政府代表部大使を務めた元防衛官僚の高見澤將林氏、元陸上自衛隊東部方面総監の番匠幸一郎氏、核に関する著作を多くものしている共同通信社編集委員・論説委員の太田昌克氏の座談会形式。

それぞれの専門分野から、中朝露という核保有国に囲まれる日本の現状、国際社会の核抑止などに触れながら、「そもそも核共有、核抑止とはどんなものか」「日本もアメリカと核共有をすべきか」などを掘り下げていく。

「核だって火力の一部」がロシアの本音

ウクライナ情勢が逼迫する前の収録ではあるが、ロシアの核を論じた第4章の記述は実にタイムリーだ。

2014年のクリミア半島侵攻時もプーチン大統領が「核を使う用意はあった」と述べ、今回のウクライナ侵攻後も「核部隊が特別態勢に入った」と述べるなど、ロシアは「核は使えない武器」であるとの認識を覆してきた。

だが本書によれば、それは驚くべきことではないという。ロシアの本音は「国が広すぎる。金もない。だから核を使うしかない」(兼原氏)であり、日本の自衛隊も「『ロシアは戦術核を使う』という前提で訓練していた」といい、ロシアにとっての核兵器は「戦略的ツールではなく、戦うための大火力の一部」(番匠氏)だと指摘する。

どの世代でも相応の「原爆教育」を経ている日本人からすれば、核をちらつかせる国家の宰相に対して「ついに正気を失ったか」と考えがちだ。あるいは核抑止について多少なりと知識があっても、「さすがに核を撃ったら終わりだろう」との認識がある。だが核を持っている相手が皆、そう思っているとは限らないのだ。

「核共有ってどうやるの?」西ドイツの事例

「核共有(ニュークリア・シェアリング)」について、いわゆる保守論壇では2000年代末ごろからちらほらと聞かれるようになっては来ていた(特に元空幕長・田母神俊雄氏の指摘による)。

が、具体的な中身や、どんな仕組みや経緯で共有が成り立っているのか、この15年余りほとんど説明されることはなかった。

本書では、日本と並んで戦後「仮想潜在核武装国(核武装の懸念あり)」とみなされていた西ドイツの事例を、岩間陽子氏の『核の一九六八年体制と西ドイツ』(有斐閣)を引く形で紹介。西ドイツに核を持ち込みたかったアメリカの意向と、それを受け入れつつ「西ドイツ領内から核を使う場合、アメリカは西ドイツの意見を聞いてほしい」と要求し、共有体制が出来上がった経緯が詳述されている。

「シェア」「共有」と言っても所有権の半分をドイツが有しているわけではない。あくまでも核自体はアメリカのものであり、ドイツ領内に置かれた核弾頭も、常時米軍が管理している。

仮にその核を使う際には、「アメリカの核を、ドイツのミサイルか爆撃機に乗せて投下する」。つまり「共有(シェア)」されているのは核そのものというよりも核使用の責任というイメージだ。

日本に置き換えれば、こういうことになる。

「かつて日本に原爆を投下したアメリカの核を、日本の自衛隊機に乗せて自衛官が他国に投下する」

合理的に考えれば「二度と核を落とされないために必要な体制」ともいえるが、心情として引っ掛かるという人も少なくはないだろう。これまでどちらかと言えば「核共有で抑止力を高めるべし!」派だった筆者(梶原)も、これを知って「……核共有、本当にやっていいのか?」と立ち止まったのが正直なところだ。

イチかゼロかの核議論はもうやめよう

こうした論点も、歴史的経緯その他についての知識を得、議論を経なければ浮かび上がってこないものだ。本書では各論者とも、まさに「本音」で議論しているため、さまざま論点が浮上している。

また、最も立場や意見が異なる兼原氏と太田氏の間で摩擦熱が生じているかの場面もある。

太田氏は核共有について「被爆国である日本の道徳的権威が傷つけられかねない」と述べるなど、慎重姿勢ではあるが、賛成の視点からは気づかない「仮に日本が核を持った場合にどのような(負の)影響が周辺に広がるか」という視点を提示してもいる。たとえば、日本の核共有によって中国の核戦略に「塩」を送ることになり、さらなる増強を許すのではないか、など。

こうした懸念が妥当であるかどうか、立場は分かれる。だがこれこそが、異なる意見を持つ者同士の議論の醍醐味だろう。意見が異なる相手との議論を経る中でこそ、一つの物事を多角的に検証することができる。

単に賛否を言うだけではない。ましてや「核議論など危険だ」と封殺するのでもない。本書も、太田氏のような視点があるかないかで、その意義が大きく変わっていたに違いない。イデオロギーだけが判定材料というような、ゼロかイチかのカウンターの打ち合いでは意味がないのだ。

核議論タブー視で失ったもの

実は本書で最も驚いたのは、北朝鮮が米中露の核戦略に精通しており、「日本の専門家も敵わないのではないか」「むしろこちらの方が足元を見られているのではないか」という高見澤氏の指摘だ。日本での核議論がタブー視されてきたことで失ったものは大きい。

現在、ウクライナ侵攻によって改めて懸念される日本の安全保障体制や核抑止の議論について、ウェブ上では「タブー視」の風潮を乗り越え研究を重ねてきた学者・専門家たちの良質な解説動画が次々と公開されている(例「NATOの核共有:その歴史と現状」下記参照)。

核について真剣に考えたいとお思いの方々こそ、結論ありきのお手軽動画ではなく、骨太な「講義」を受けたうえで、真剣に核議論に向き合うべきだろう。もちろん、本書が一助となることは言うまでもない。

梶原麻衣子 | Hanadaプラス

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