ウクライナを代表する歌手、ジャマラ(38)の生活は、ロシアの侵攻で一変した。幼い2人の息子を抱え、トルコ・イスタンブールに避難した。彼女は旧ソ連時代に迫害されたウクライナ南部クリミア半島の先住民族タタール人だ。戦渦が広がる中、民族の悲劇の歴史を歌った彼女の歌が、再び共感を集めている。本人に胸の内を聞きに行った。(共同通信=橋本新治)
▽トルコ人の助手もファンだった
「あのジャマラがイスタンブールに避難している」。イスタンブールで勤務している私に、トルコ人の助手が教えてくれた。ジャマラは欧州最大級の国別対抗音楽コンテスト、2016年の「ユーロビジョン」を「1944年」という曲で制した。トルコでもユーロビジョンの人気は絶大。助手はジャマラのファンだった。
歌手、作曲家、俳優として多彩な才能を持つジャマラ。音楽にはソウル、ジャズ、フォークといったさまざまな要素が入り交じり、優しい声が持ち味だ。助手はいかに素晴らしい歌手かを力説してくれた。音楽シーンに疎く、知らないことばかりだった私も「1944年」の意味や、彼女の生い立ちを聞くうちに、そんな人生があるだろうか、と引かれていった。
▽ソ連に強制移住させられた曽祖母を歌った曲
曲は、独裁者スターリン時代の第2次大戦中、タタール人がウクライナ・クリミア半島から中央アジアに強制移住させられた史実を描いている。
歌詞には英語とタタール語が混在する。「見知らぬ人がやってくる、あなたの家にやってくる、みんなを殺して、そして言う、俺たちに罪はない、罪はない」で始まる。見知らぬ人とはソ連兵を指す。ジャマラの曽祖母が体験した悲劇だった。
突然やってきたソ連兵が曽祖母を家から追い出し、5人の子どもと共に貨物列車に押し込んだ。ウズベキスタンに向かう家畜用の車両だった。息苦しく、水もなかった。まだ赤ちゃんだった末っ子の娘が死んだ。曽祖母は遺体を守ろうとしたが、兵士が取り上げ、車両から投げ捨てた。その場所がどこなのか、今も分からない。この赤ちゃんは、ジャマラにとって祖父の妹にあたる。
▽偶然が重なり、インタビューにこぎつけた
ジャマラに魅せられた私だったが、問題はどうすれば会えるか。欧州のスター歌手との接点は何も思いつかなかった。ただ、そこへ偶然が重なった。
クリミア・タタール人の指導者ムスタファ・ジェミレフ氏(78)がイスタンブールに来ていたのだ。彼はタタール民族運動のレジェンド。私は侵攻前にウクライナに出張し、ジェミレフ氏をインタビューしたばかりだった。彼女の連絡先を知っているに違いないと思い、会いに行った。
再会を喜んでくれたジェミレフ氏は、実はトルコから新たな軍事支援を取り付けるため、ゼレンスキー大統領から派遣され、エルドアン大統領に会いに来た、と明かしてくれた。気軽にお茶を飲みに来たつもりだったが、そのままインタビューに。最後にジャマラの連絡先を尋ねると、すぐに取り次いでくれた。
取材当日、ジャマラは待ち合わせ時間に少し遅れてやってきた。「ごめんなさい。子どもがなかなか寝てくれなくて」。取材中、質問を聞くときを除き、ほとんどうつむいていた。疲労困憊であることは明らかだった。
申し訳ないという気持ちで一杯になったが、彼女はメディアを通じて訴えたいという、自分自身に課した責務を果たそうとしているようだった。ジャマラは、侵攻当日の様子から語り始めた。
▽国境に送り届けてくれた夫は自国に残った
ロシアがウクライナに侵攻してきた2月24日、ジャマラは曽祖母と同じように突然、首都キーウ(キエフ)の自宅を追われた。午前5時ごろ爆音が響き、息子2人を抱いてシェルターに逃げた。どうやって荷物をまとめ、何を持って行けばいいのか、何を着るべきか、一切分からなかった。欧米諸国が「ロシアが攻撃する」と警告していたが、気にも留めていなかったという。
もう少し自宅にとどまって様子を見ようかと思ったが、事態は刻一刻と悪化していった。24日夜、子ども2人、夫、夫の両親と車でキーウを離れた。数日かけてルーマニア国境までたどり着き、そこから姉が暮らすイスタンブールに向かった。夫はジャマラたちを国境まで送り届けると、来た道を戻っていった。
コーヒーが好きな夫はウクライナで仲間とコーヒーチェーン店を営み、世界に五つしかないという高価なコーヒーマシンを自慢していた。
しかし、日常は一変。今は兵士に防弾チョッキやヘルメットを運び、女性や子どもたちの避難を手助けする日々だ。
ジャマラも侵攻前日まで、音楽人生の集大成となるアルバム制作に没頭していた。オーケストラを使った壮大な作品で、グラミー賞も狙えるのではないかと心を躍らせていた。「あっという間に全てが粉々に壊れた。今となってはどうでもいい。とにかく夫に生きていてほしい。私のウクライナが勝利し、ここから抜け出したい」
▽「私たちの民族はなぜこんな経験を」
1983年、ジャマラは中央アジアのキルギスで生まれた。父は音楽学校でアルメニア系の母と出会った。父は合唱団の指揮者、母はピアニストだった。家族がクリミアに帰還できたのは90年ごろ。音楽一家に育ったジャマラはキーウの音楽院でオペラを学び、歌手の道を歩んだ。「どこで生まれたかどうかは大切ではない。大切なのは祖先のルーツはどこから来ているかだ。私はキルギスで生まれたけれど、祖国はクリミアだ」
ロシアが2014年にクリミアを強制編入して以来、ジャマラは故郷に帰っていない。そしてウクライナが戦場となった。「信じられないほど悲しい。なぜ私たちの民族はこんな経験をしなければならないのか。ようやく家を建てたのに、捨てて出て行かなければならない。これで何回目だろう。もう一度、全てゼロからスタートしなければならない」
「1944年」は欧州で再び注目を集めている。ジャマラはウクライナ支援の寄付を集めるため欧州各国を飛び回っている。ドイツやルーマニアの音楽イベントで、曽祖母の苦難を歌った。「私の家族の物語だった。その歌詞が今、現実になった。みんなの物語になった。当時と似た歴史をたどっている」
今はとにかく時間がないという。息子たちが小さく、育児も忙しい。メディアのインタビュー依頼も多い。それでも疲れ果てた自分を奮い立たせている。
「歌う必要があるなら歌う。話す必要があるなら話す。世界に向かって支援を求め、叫ぶだけだ。私は今できる限りのことをしようと思う。この戦争を言葉で、歌でどうやって止められるか」