遺体を焼くにおい、叫び声…ロシア軍のウクライナ侵攻でフラッシュバックする被爆者 「争いはもうやめて」ヒロシマから祈る平和と非核

原爆ドーム前でロシアのウクライナ侵攻に抗議する市民ら=4月10日、広島市

 ロシアによるウクライナ侵攻のニュースに、日本の被爆者たちが記憶をフラッシュバックさせ、苦しんでいる。被爆者にとってウクライナやロシアは決して遠い存在ではない。旧ソ連時代にはチェルノブイリ原発事故があり、「ヒバクシャ」同士、交流を深めてきた。それだけに、両国を訪れて学生らと交流した被爆者は「もう争いをやめてくれ」と祈り、ウクライナ大統領を原爆ドームや原爆資料館に案内した被爆者は、核兵器の使用を防ぎたいと願った。

 4月10日には、被爆者や市民約750人が原爆ドーム前に集まり、ロシア軍の撤退や核兵器使用禁止を訴えた。ヒロシマから平和を祈り、行動する人たちを追った。(共同通信広島支局)

 ▽77年前の光景

 広島県府中町の八幡照子さん(84)は取材に、声を絞り出すように語った。「遺体を焼くにおいや、悲鳴や叫び声、真夏の熱気と燃えさかる炎の熱さまでよみがえる。何十年たっても五感が覚えている」。ウクライナの破壊された街に遺体が横たわる映像を見て77年前の記憶がよみがえり、苦しくなったという。

英語の原稿を手にする八幡照子さん=4月8日、広島市

 原爆投下後、火葬場になった学校の校庭で、遺体が焼かれていた光景がフラッシュバックした。生々しい記憶はつらく耐えがたいが、それでも「何が起きているのか。どうして戦争が起きたのか」を知るべきだと思い、新聞やテレビで情報収集を欠かさない。

 八幡さんは2013年に非政府組織(NGO)「ピースボート」の船に乗り、世界各地で被爆体験を語った。原爆を落とした爆撃機に乗っていた米兵の孫や、ポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所跡のガイドとも交流し、戦争の醜さと残酷さを痛感した。「私が話しても世の中は変わらない。微力だけど、せめて自分の言葉で伝えたい」。通訳なしで証言したいと考え、現在は英会話教室に通い練習を重ねている。

 ▽真っ黒な死体を毎日思い出す

 フラッシュバックに苦しむのは他の被爆者も同じだ。心の痛みを抱えながらも、被爆体験の証言活動に取り組んできた語り部たちは自らを奮い立たせる。「命ある限り、戦争や核兵器はいけないと叫び続ける」

ロシアのウクライナ侵攻などについて思いを語り合う被爆者たち=4月8日、広島市の原爆資料館

 原爆資料館では4月8日、語り部として活動する「被爆体験証言者」の委嘱式があった。終了後、式に参加した10人ほどの被爆者が集まり思いを語る中、話題は自然とロシアによるウクライナ侵攻になった。

 「真っ黒になった死体を(最近)毎日思い出す」。同市の篠田恵さん(90)は77年前、爆心地近くに姉を捜しに行き、焼けただれたたくさんの遺体を見た。生き残った後ろめたさから体験を語れずにいたが、孫に背中を押され約10年前から語り部を始めた。連日報道されるウクライナの惨状と、脳裏に焼き付いた遺体の姿が重なるという。「早く戦争が終わることを祈っている」と声を振り絞った。

 

切明千枝子さん(左)

 広島市の切明千枝子さん(92)は「ニュースを見ると胸が苦しくなって息が詰まりそうになる」と語り始めた。ロシアのプーチン大統領が核兵器の使用を示唆していることには「プーチン氏は被爆の恐ろしさを知らないのだと思っていたが『よく知っているからこそ脅しに使っている』と言う人がいた。どうすることもできなくて歯がゆい」と話した。

 切明さんは、被爆死した身内や友人のために証言を続けてきたと述べ「生かされている私が、あの日のことを伝え続けなくては」と力を込めた。

 ▽ロシアとウクライナで被爆証言

 ロシアとウクライナを訪れ、被爆体験を証言したことがある元高校教諭の森下弘さん(91)は「もう、争いはやめてくれ」と祈るように情勢を見守る。森下さんは14歳の時、広島の爆心地から約1・5㌔で被爆。顔には今もやけどの痕が残る。長女の誕生をきっかけに30代のころから平和教育や証言活動に取り組んできた。

 

2004年にウクライナとロシアを訪問した際の思い出を語る被爆者の森下弘さん=3月、広島市

 両国を訪れたのは2004年秋。広島国際文化財団主催の「広島世界平和ミッション」に参加し、日本語を学ぶ学生や政府関係者らと交流した。ウクライナでは、旧ソ連から独立する際に手放した核ミサイル基地の跡地や、1986年に爆発事故を起こしたチェルノブイリ原発も見学した。

 森下さんの証言を聞いたウクライナの学生たちは「痛みを分かち合い、語り伝えたい」と心を寄せてくれた。「独立し、非核国家になった誇りみたいなものを聞くことが多かった」。森下さんは旅の記録に、ウクライナの印象をこうつづった。ロシアでも「証言してくれてありがとう」と歓迎を受けたという。

 ▽平和願う声を政治に

 ロシアのプーチン大統領は侵攻開始直後、軍の核部隊に警戒態勢の引き上げを命じた。森下さんは「実際に使う可能性もある」と危惧する。小型の戦術核は「使える兵器」との認識が広がっていると感じるからだ。「1発だけでも何万の命が奪われ、何十万の人が家族を失う。許せない考えだ」と憤る。

 太平洋戦争が終わった時は平和が訪れると期待したが、現代になっても戦争は繰り返されている。それでも「生きているうちに核兵器を廃絶したい」との願いは変わらない。「誰も戦争を望んでいないはずだ。平和を願う市民の声を政治に届け、絶対に核使用を阻止しなければいけない」と言葉に力を込めた。

 ▽広島を訪れたウクライナ大統領

 

広島・平和記念公園を訪れ、原爆慰霊碑に献花するウクライナのユーシェンコ大統領(当時)=2005年7月

 チェルノブイリ原発事故が起きたウクライナと被爆地広島との結び付きは強い。2005年には来日した当時のユーシェンコ大統領が、自ら希望して広島の原爆資料館を訪れた。当時資料館の館長としてユーシェンコ氏を案内したのは、胎内被爆者の畑口實さん(76)だ。

 ユーシェンコ氏は資料館で原爆投下直後の市街地のパノラマ模型に見入り、1発の爆弾で街が変わり果てたことに驚いていたという。予定時刻を過ぎても熱心に見入った後、原爆ドームの見学も希望した。畑口さんは「原爆とチェルノブイリ原発事故による放射線被害を重ねているようだった」と振り返る。

 ユーシェンコ氏は、資料館にこんなメッセージを残した。「文明の最も恐ろしい大惨事を心に刻みます。平和を守るためにあらゆる努力をして、将来あのような悲劇を阻止することがわれわれの義務です。ウクライナ人は原発事故の恐ろしさを経験して、そのことが誰よりもよく分かります」

原爆資料館でユーシェンコ大統領(当時、右)を案内する畑口實館長(当時、左)=2005年7月(資料館提供)

 原発事故で甲状腺がんになったウクライナの子どもたちも、97年に資料館を訪れ、畑口さんが案内した。「当時12~15歳だった彼らが今、ロシアと戦っているのかと思うと心が痛む。ロシアの軍事侵攻は一方的で、決して許されない」と訴える。

 ▽核の傘

 一方で、日本にも課題があると畑口さんは考えている。98年、包括的核実験禁止条約(CTBT)署名を拒否するインドに行き、館長として被爆の実相や核廃絶を訴え講演した。その際、地元の有識者から「あなたの国は核の傘に守られているじゃないか」と言われ、言葉に詰まったという。

原爆資料館元館長の畑口實さん=4月6日、広島市中区

 現在、日本では国会議員から、米国の核兵器を共同運用する「核共有」の議論が出ている。「米国の核の傘から脱却しない限り、こういった議論を生んでしまう。核兵器は一度使用すれば世界が破滅に向かう」と指摘する。

 畑口さんは、8月6日の平和記念式典で、広島市長の平和宣言に「核の傘からの脱却」を盛り込んでほしいと考えている。「被爆地広島に住むわれわれが核の問題から目を背ければ、誰がこの問題を追及するのか。声を上げることをやめてはいけない」

 (取材・執筆=野口英里子、小作真世、佐々木夢野、重冨文紀)

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