エスカレーター、歩くのはあり?なし?「立ち止まり義務条例」が施行された埼玉県で聞いてみた

JR浦和駅のエスカレーター=4月、さいたま市

 エスカレーターで歩かず立ち止まることを全国で初めて利用者に義務づけた埼玉県の「エスカレーター条例」は、2021年10月の施行から半年以上が経過した。駅などで先を急ぐ人がステップを駆け上る姿は今も減らないように見えるが、条例が施行された埼玉県では効果があったのか―。そもそも、なぜ片側を空けて利用するようになったのか―。疑問を持った記者がエスカレーターの利用環境や歴史を研究する専門家に取材し、埼玉県民にも聞いてみた。(共同通信=米津柊哉)

 ▽条例はなぜできた

 都市部を中心に、片側に立ち止まる人の列ができ、もう片方を歩く人が利用する風景が日常的なエスカレーター。条例は利用者には立ち止まること、鉄道会社などにはそれを周知することを義務付けた。罰則はない。
 制定の背景には、歩いて利用する人による転倒事故などを防ぎ、安全性を確保したいとの考えがある。

JR浦和駅でエスカレーターの安全利用を呼び掛けるチラシを配る埼玉県の大野元裕知事(手前左)=3月、さいたま市

 業界団体「日本エレベーター協会」(東京)によると、エスカレーターの安全基準は歩いて利用することを想定していない。協会が把握したエスカレーターの事故は18年~19年、全国で1550件。JR東日本によると、埼玉県内の駅では、ステップを踏み外すなどの事故が21年度、少なくとも23件発生している。埼玉県の担当者は「障害がある人や高齢者などさまざまな利用者がおり、安全に利用できる環境をつくることが重要だった」と話す。

 ▽障害者にやさしい条例

 

盲導犬と舞台に立つなど、外出の機会も多い桜井洋子さん

 視覚と聴覚に障害があり盲導犬と外出する、さいたま市の桜井洋子さん(65)は条例を歓迎する一人だ。関東地方では左側で人が立ち止まって利用し、右側を歩くケースがほとんど。桜井さんは条例施行前、エスカレーターでは周囲に合わせ自身がステップの左側に寄り、盲導犬は後ろのステップに乗せていた。犬のリードはいつも左手で持っているため、手すりを握るのは右手となり、不自然な姿勢を強いられていた。
 盲導犬とステップに並んで乗ってみることもあったが、歩いて利用する人に手すりをつかむ右手を払われ、恐怖心が残った。条例は盲導犬と並んで乗ることを認めた形で、「ルールとされたことが本当にうれしい」と話す。

 ▽歩く人減少、意識は上昇? 

筑波大の徳田克己教授=提供写真

 条例で利用者は立ち止まるようになったのか。バリアフリー論を専門とする筑波大の徳田克己教授が、埼玉県内の駅などで歩く人の割合を調査した結果を教えてくれた。

 大宮駅(さいたま市)で東武線からJR線への乗り換えに使うエスカレーターでは、施行前の2021年9月、調査対象の約6300人のうち約6割の人が歩いて上っていた。しかし、施行後の2022年1月、曜日や天候などの条件が同じ日の調査では約6900人のうち、歩く人は4割弱まで減った。

 他に調査した2カ所でも減少の結果となり、徳田教授は「条例を伝えるポスターやアナウンスで、じわじわと認識が広がった効果だ」と分析する。

 ▽利用者の実感聞いてみた

 ただ、いまだに4割弱の人は歩いて利用する状況。実際の利用者はどう考えているのか。記者はさいたま市のJR浦和駅前を歩く埼玉県民に、エスカレーターの利用方法や条例の受け止めを聞いてみた。
 50代の女性会社員は「条例は知っているけど、通勤の利用でつい歩いちゃう」と打ち明ける。「基本は立ち止まることにしているが、電車が来そうな時などは気をつけて歩いている」(別の50代女性会社員)という人も。

JR浦和駅のエスカレータそばに貼られたポスター=4月、さいたま市

 一方で、男性会社員(30)は「条例ができてからは歩いていない。特に反対する理由はなく、決まったらそうしようと思った」。主婦(72)も「膝が良くなくて、条例の前から歩いていない。条例ができてから、ひやっとすることが少なくなった」と喜ぶ。

 ▽「片側空け」はいつから?

 そもそも、エスカレーターの片側を空ける習慣はいつ、どのように生まれたのだろうか。文化人類学が専門で、エスカレーターの歴史を研究した江戸川大の斗鬼正一名誉教授によると、日本での始まりは大阪の交通の要衝、梅田の駅。高度経済成長期だった1967年ごろ、関西の鉄道会社が「急いでいる人のために」と左側を空けるようアナウンスしたことがきっかけとされる。
 東京ではバブル経済ただ中の89年ごろに始まったとみられているが、明確な呼びかけの記録などは残っていない。長い距離のエスカレーターがあるJRの東京駅や新橋駅などから、自然と「片側空け」が習慣化されたとみられるという。

江戸川大の斗鬼正一名誉教授=提供写真

 片側を空ければ急ぐ人にとって便利で、斗鬼名誉教授は「高度成長、バブルと、早いことは良いことだという時代だった」と背景を解説する。一方で、効率重視の考えが生活に入り込んだ形と言え、「弱者に対する思いやりが欠けていたともいえる」。多様性や社会的弱者への配慮に関心が向けられるようになった現代も続く片側空けを、「前世紀の遺物」と批判する。

 ▽これからの「乗り方」は

 斗鬼名誉教授は、埼玉県の条例を「罰則をつけるのではなく鉄道会社や利用者など、みんなで考えようと呼びかけているのは評価できる」と好意的に受け止める。一方で、エスカレーターでの事故の統計が不足しており、さらなる調査と公表が必要との考えだ。 

 徳田教授は、「立ち止まって利用して」との呼びかけから、「右にも左にも立とう」など条例の浸透に合わせアナウンスの形に変化が必要と指摘する。「呼びかけに応じる人が目に見えて増えていけば、片方を空ける習慣も変わっていくのではないか」と話した。

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