大瀧詠一のプロデュース仕事、クレイジーやトニー谷や橋幸夫や小林旭を復刻!  ナイアガラーが追いかけなければならない作品が続々登場

ナイアガラーにとって幸せだった80年代の始まり

1981年の傑作アルバム『A LONG VACATION』に魅せられた僕らは、翌1982年の『NIAGARA TRIANGLE Vol.2』『NIAGARA SONG BOOK』『NIAGARA CM SPECIAL Vol.2』といった傍系のアルバムを経て、1984年には早くも待望のオリジナルアルバム『EACH TIME』を聴くことが出来た。既存の諸作品の初CD化なども重なり、今思えばなんと幸せな日々であったことだろう。

しかし同じ年に『NIAGARA SONG BOOK 2』をリリース、1985年にはっぴいえんど再結成ライブに参加した後は、シングル「フィヨルドの少女 / バチェラー・ガール」を最後に新譜が途絶えてしまうことになる。その次のシングル「幸せな結末 / Happy Endで始めよう」が1997年に出されるまで実に12年もの歳月を要することになろうとは!

オリジナル作品こそしばらく発表されなくなったものの、プロデュース仕事はその後も続々と展開されていった。だからいつの間にかナイアガラー(=大瀧詠一マニアのこと)の端くれになっていた自分も決して暇になったわけではなかった。追いかけなければならない対象がそれまでのアーティスト・大滝詠一から、プロデューサー・大瀧詠一へと移行して、むしろコレクティングしなければならないアイテムはますます増えていったのだ。

多彩な大瀧詠一プロデュース作品。クレイジー・キャッツ記念盤も!

それ以前から新作と並行してプロデュースものは少なくなかった。70年代の布谷文夫やシュガー・ベイブに始まり、80年代は松田聖子にラッツ&スター、ノヴェルティソングだと1982年1月の「うなずきマーチ」や同年11月の「イエロー・サブマリン音頭」が有名だろう。そしてプロデュース仕事が主軸となった80年代後半には、大瀧がリスペクトしていた歌謡曲系の復刻に携わる機会が俄然多くなっていった。

1986年の編集盤『クレイジー・キャッツ・デラックス』はその最たるもので、書き下ろしの新曲「実年行進曲」がフィーチャーされたアルバム。ハナ肇とクレイジー・キャッツ結成30周年の記念盤となった。クレージーの再評価に関しては、作家・小林信彦と大瀧詠一が大功労者といえる。殊に音楽面で大瀧は大活躍し、その後も1995年の植木等のアルバム『植木等的音楽』をプロデュースするなど、80年代以降のクレージー陣営になくてはならない存在であった。

大瀧詠一得意の別名義は“厚家羅漢”

1987年には図らずも追悼盤となってしまったアルバム『ジス・イズ・ミスター・トニー谷』をプロデュース。この時も復刻のみに留まらず「さいざんす・マンボ」のリミックスヴァージョンが作られている。ビクターではその後も橋幸夫のリズム歌謡を集めた『SWIM! SWIM! SWIM!』を1990年に、リアルタイムのビートルズ日本語カヴァー『meet the 東京ビートルズ』を1993年にプロデュースした。

なおこれらには大瀧得意の別名義が使われ、厚家羅漢プロデュースによる。ほかにも、1985年に「熱き心に」を提供した小林旭はもともと大ファンであったことから、2002年にコロムビアで3枚、クラウンで1枚作品集が編まれ、『アキラ1~4』としてリリースされるなど、大瀧プロデュースによる歌謡曲の編集盤は実に多種多彩である。

想像するだけでも愉しい “もしも大瀧詠一が健在だったら”

こうなると、もしも大瀧詠一が今も健在であれば、どんな復刻を手がけていただろうか… と夢想してしまう。実際に構想があったかは別にして個人的な希望を加味すると、洋楽が及ぼした影響が著しいムード歌謡やムードコーラスはいずれアプローチしたいと考えていたような気がする。フランク永井やマヒナスターズの奥深き世界などは、氏の探求心を十二分に擽るものに違いないからだ。

そんなことを思いながら、厚家羅漢プロデュースによる都会派ムード歌謡コンピの選曲を考えてみる。やはり1曲目は「西銀座駅前」かなとか、「泣かないで」の落としどころはどこだろうとか。これ以上に愉しい時間の過ごし方はほかにちょっと思いあたらないのだ。

カタリベ: 鈴木啓之

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